その傲りを、誇りに変えて
今日も楽しくお仕事してきた。
多くのことを成して、多くのことを成せなかった。
できないことは、できることよりも遥かに大きい。
無力を味わいながら、僕は日々を送っている。
それでも挫けずにいられるのは、誰かの役に立っているという実感があるからなのだろう。
無力だが、無能ではないのだ。
さて、感謝というものはすばらしく平穏をもたらす、世にも素晴らしき概念だが、同時に傲りを引き寄せもする。
僕はこんなに未熟なのに、感謝される立場にいる。
恐ろしいのだ。
この程度で良いのかと。
ひねくれていることは解っているし、その結末も知っている。
ようは不完全な僕に感謝してくる他人が嫌いだという、果てしなく傲慢な感情なのだ、これは。
ふざけた考え方である。
僕はいつ、僕を救うことができるのだろうか。
いつか成るのではなく、いま成らねば。
時は遡れないが、辿ることだけを許している。
取りこぼしたものは、もう二度と手に入らない。
泣いてばかりの人生だったような気がする。
それは僕が辿ることを拒否したからで、だから弱い自分がすべてのように感じているだけなのかもしれない。
忘れてしまったものの中に、何か大切なものがあるのかもしれない。
経験と事実だけが、今の僕を形作っているように思う時がある。
記憶力というものがないと己を規定することで、目をそらしているのかもしれない。
そんなことを思って帰宅した。
ようは、暇なのだ。
考えられるだけの余裕があるから、それを不安に思うのである。
その証拠に、自宅に着くと心は別の娯楽を求め始める。
今日はエルデンリングをしない日と決めている。
あれをやると、眠れなくなるのである。
理性は真に人らしいことなのだから、それを証明するのだ。