正しくあらんとしているのだから正しくなくては困る
正しさとは傲慢である。
正しさは卓越した力によって支えられ、筋の通った論理によって成り立つ。
そして何よりも、それを求める心によって生み出される。
僕は正しく生きている。
そのように生きようと志しているし、そのために努力をしている。
故にその生は正しくなければ困る。
己の中に何かの正義を求めている訳ではないが、自己の正しさは自分自身の手によって示さなければならない。
正しくあろうとすれば、大体のことは正しくなる。
努力の末に裏切られることもあるけれど。
多くの場合、誤った結末は己の中にある正義から生まれる。
そうした結末は、自己の精神を苛む。
正しくあろうとした結果に裏切られたのだから、当たり前だ。
だから人はそこから多くを学び取るし、また忌避もする。
仕事を始めてからというもの、そういう事象に傷つくことが増えた気がする。
正しくあろうと自己を規定しても、周囲は僕ほど意識が高いわけではない。
"こんな簡単なこと"もできないのかと、頭を抱える時がある。
僕が呼吸をするのと同じ程度に感じていることが、誰かにとっては重度の肺炎症状級に厳しいことだったりする。
常識というものは恐ろしい言葉である。
僕の常識は社会に通用しないが、社会の常識は僕に通用するという前提で話が進んでいくようだ。
そのことを鑑みるに、僕は色々とイレギュラーなのかもしれない。
どうやら僕のスキルやセンス、マインドといったものは、仕事人としてはかなりの上澄みに当たるようだ。
僕は仕事を始めてから、一度も"できない"ということを口にしたことがない。
誰かがやらねばならぬことがあり、僕がやれることならば、僕がやるだけ。
ただただそれを如実に遂行してきた。
同期や先輩、後輩、取引先やその他色々、エンジニアと関わることが多くなった。
まぁそれは僕もエンジニアなのだから当たり前のことだが。
どうやら多くのエンジニアの常識によると、"できない"ということをやらないことの理由にしてもよいらしい。
なので困ったことに、僕のところには誰も"できない"ことがたくさん集まってくる。
つまるところ、正しさとは権威の言い換えにほかならない。
嫌な話だが、僕が権威を持つと、そこに正しさが生まれてしまうらしい。
僕はまだ自分が大層なエンジニアであると誇ったことはない。
できないことは無限にあるし、知らねばならないこともまた山ほどある。
それでも現実という時間の中で為すべきことを成しているだけなのだ。
正しさの牙城と自己を規定すると、途端に自分が憐れな存在に見える。
未知の領域に対して一歩を踏み出すことが、とても怖いもののように思えてくる。
一年前の自分が息を吸うようにしてきたことが、今ではとても怖ろしい行為のように感じてくるのだ。
娯楽の色が突如に褪せていくように、挑むことに対する意志もまた衰えていく。
もともと情熱的な生を謳歌したかったわけではないし、誰かの上に立つことを至上命題としてきたわけでもない。
ただただ自分らしく生きること。
正しく自分であること。
それが僕の願いであったはずだ。
だからその正しさは呪いなのだと、過去の僕が言っていたような気がする。
多くの呪いを帯びて、今日も僕は生きている。
僕には、正しいことをしているという実感がある。
進むことに対する痛みは、かつても経験したことのあるものだ。
人は何かに挑むとき、常に孤独なのだ。
僕は今、孤独の最中に在る。
誰も僕のことを理解しないし、できない。
できるやつのことなど、誰も心配はしない。
できないやつのことをこそ、多くの者は慮る。
であるからこそ、僕は強くなりたい。
僕は僕を幸せにしたい。
正しく生きている者を、正しくあらんとする者をこそ、僕は愛せるようになりたい。
故に僕もまた、正しくあらねばならない。
少しずつだけど、僕は僕を愛せるようになってきた。
歪んでいるという自覚はあるけれども。
それもまた愛せればよい。
直視することでしか現実を測る術はないのだから、せめて誠実に正しくあらんとするのだ。
そんな言葉を自分に向けて放つことで、僕は明日を正しく生きていくのだ。