イドのなんらか

TRPGしたりキャンプしたりするITエンジニアの人間が書く雑記

僕は生きることで精一杯だよ

なんのために生きるのか

僕は,生きるために生きている.

生きることは,非常に大変なことである.

だからなんのために生きるのかと言ったら,僕は生きるために生きているのだ.

 

僕が藻掻き,足掻き,葛藤し,そうして進んだ足跡が,僕の人生になる.

その結果,ちょっとの幸せを感じたり,誰かを幸せにできたのならば,万々歳というものである.

 

僕は幻想の中に生きている.

自分を誤魔化さなくても良い世界という幻想を追い求め,今日という日を生きている.

 

僕は,僕ほどに歪んだ人間でも真摯に生きているということを証明したい.

それは誰かに宛てた証明ではない.

僕が僕を愛するために必要な,僕への呪いだ.

 

僕は幻想を追い求めて生きている.

きっと僕の願いは,探求をやめた時に初めて成就される.

手に入らないものを求めているというのが,自分という人間の本質だ.

 

僕は生き様を語るための手段として,仕事というものに憧れを抱いているのだと思う.

仕事の内容そのものではなく,懸命に生きていることの証明手段として,仕事に関心があるのである.

 

だから僕は,志望動機というものを持つことができない.

 

仕事に対する意欲もやる気もある.

経営理念も企業のミッションも,本心から賛同できる.

そしてミッションを達成するために,挑戦する努力をすることができる.

 

でも,なぜその企業じゃないとダメなのかと言われたら,答えることができない.

強いて言うなら,個人として尊敬できる人たちがいるからとしか,具体的な志望動機を答えることができないのだ.

 

僕は相応に歪んでいるのだろうか.

いや,きっと僕のような思いを抱いている就活生は,そこそこに居るのだろう.

現実主義でもっともらしい志望動機を述べることができる点が,彼らと僕の違いだ.

 

今の僕は,それを実行に移すことができない.

5月6月と就活が上手くいかなければ,そのうちに否が応でも攻略法に手を染めることになるのだろう.

 

それでも今は,自己理解の手段として就職活動というものを利用してみたい.

かつてないほどに,僕は今,自分という人間について深く考えている気がする.

 

大丈夫,きっと僕は,真に自分を愛せる日がくるはずである.

 

我のつよいものたち

さて,こんな話をしていたのは,今日も友人に会ってきたからである.

お相手は,2周間前にデートした彼だ.

 

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オシャレなカフェでデートしてきた

 

今日はオシャレなイタリアンでランチして,公園でお散歩してきた.

ついでに3時のおやつとしてカフェに入った.

抽象度の高い会話をしているうちに,6時になっていた.

3時間のおやつタイムであった.

 

今日も今日とて,彼には就活相談に乗ってもらった.

僕という人間の異質さを認め,それでも僕は強みや能力があると肯定してくれる彼には,感謝してもしきれない.

 

僕は自己認識が非常に下手くそな人間である.

自己認識が上手かったら,こんなに苦労はしていないのだが……

まぁ相当に自分のことを知るのが苦手な人間なのだ.

 

僕は天の邪鬼であるから,他者に形容されることを極端に嫌がる.

自分の本質を見抜かれたと感じた瞬間に,自分の有り様を変質させて他者からの評価をズラすというどうしようもない反射的行動をするほど,僕は病的に歪んだ人間である.

 

だから他者からのフィードバックを受け取ることができない.

結果,自分という人間がさらに不明瞭な存在となっていく.

 

この悪癖は,生涯治ることがないと思う.

きっと僕はこの天の邪鬼な自分を認め,どうにかして付き合っていくしかない.

本当に困ったものである.

全く,本当に……

 

さて,そんな僕なのだが,今日は彼から僕の本質に対して肯定をされた.

彼曰く,僕は「生真面目」で「真摯」な人間であるらしい.

 

生きるという命題に対し一人で立ち向かっているからこそ,他者にも真摯で居られるのが僕の美徳であるようだ.

どこまでも主観でしか生きることができないから,その主観を尊重することが当たり前のことになっているのだと,彼は分析してくれた.

 

確かに僕は,無意識のうちに紳士な振る舞いをすることができる.

文明社会で生きる上で求められる多くのマナーを守り,模範的な行動ができる.

社会通念上望ましいとされる振る舞いの多くを,実行に移すことができる.

「自分がされて嫌だと感じることを他の誰かにしない」という至極当たり前のことを,至極当たり前のように実行できる.

 

それは美徳だが,同時に欠点でもある.

ひとつは,自分がされて嬉しいことしか,他者に実行できないこと.

もうひとつは,自分が嫌でなければ,他者にそれを適用できてしまうことである.

 

僕は人の機微がわかる人間だ.

歪みきった僕のセンサーは,主観の強い人間が社会性フィルターの後ろに隠した本質的な欲望を,結構な精度で嗅ぎ分けることができる.

その人が共有したくてたまらない,でも共有できない,そんな情報の存在を見抜くことができる.

 

端的に言えば,人の動機を見抜く能力に長けているのだと思う.

相手の行動を論理的に解析し,本能的にその理由を導き出す能力がある.

コミュニケーションの場においては,なかなかどうして強力なツールなのではないかと思う.

 

しかし,僕は人の気持がわからない人間でもある.

相手が隠したい本質に対し,ズケズケと立ち入って開示させようとしてしまう.

親しくもない間柄の相手に対して,失礼なことを言えてしまう.

 

本音で喋りたい間柄であれば,本質をさらけ出して会話ができる.

しかしそうでない間柄も,現実には存在する.

僕は,嫌われがちな行動原理を持ち合わせているのである.

 

僕は主観で語らない人間が嫌いである.

ゲームで例えるなら,攻略wikiとゲーム動画を見てゲームをやった気になっている連中が,殺意を抱くほどに嫌いである.

僕は主観でゲームを味わっている人間を好む.

 

彼は,残酷なまでに主観で生きている人間だ.

彼は利他と利己の釣り合いが取れている,理想的な人格であるように思う.

それでも,彼もまた彼なりの不安や葛藤を持ち合わせているらしい.

 

僕は彼の不安や葛藤を紛らわすことができない.

そして彼もまた,僕の不安や葛藤を紛らわすことはできない.

僕たちはどうしようもなく同類であるが,どうしようもないほどに異質な存在であるからだ.

 

悪役の遺伝子

生きていると,どうしようもなく悪役であることを求められる機会がある.

彼から,そんな話を振られた.

 

多くの人は性善的で,悪を求めることはないのではないかと,僕は言った.

悪を求めるのは,人の集まりなのだと.

 

多くの人は,マンツーマンで交流しているうちは性善説に従って自己開示を行い,互いを知り合い,認識の違いを共有しあうことができる.

善に関する認識の違いを知り合うことができるから,悪を求めることはない.

 

しかし組織や集団が肥大化すると,個と個の関わり合いは疎になる.

自己と他者にある認識の違いを認め合うことなく善をぶつけ合うから,受け入れがたい齟齬が発生する.

結果として,悪というものが生まれるのだと,僕はそう考えた.

 

なんか以前の記事でコミュニティの意思が云々と書いた記憶があるが,大枠は同じ内容であると思う.

みんながみんないい人であっても,それが集まったら望ましくない事象が起こり得る.

悪を生むのは組織や集団であるのだ.

 

正しい思想が,いつも正しい結果を導き出すとは限らない.

だからその思想を願いとして聞き届け,また自分の願いをさらけ出すことが,答えを出す上で重要なのだと思う.

 

それでも悪役であることを求められたのなら,僕は悪役になると,僕は彼にそう言った.

僕は善意でのみ稼働しているのだから,それで誰かを救えるのなら,僕は喜んで悪を成すことができると.

 

僕は,悪役になることが得意な人間であると思う.

というよりも僕の家族はみんな,悪役を演じることが得意な人間であると思う.

 

嫌われるのは,誰だって嫌だ.

それでも人は集団で生きていると,誰かを嫌わなければいけない日がやってくる.

だから嫌われる役を,誰かに押し付けずにはいられない.

 

それでも僕は,誰も嫌いたくない.

だから僕は,嫌われることを選べてしまう.

嫌いたくないから,嫌われるという選択肢を,合理的に選べてしまう.

 

父も母も,二人の兄も,悪役になることが得意な人間であると思う.

彼らもまたどうしようもなく合理的な人間であるから,集団や組織を円滑に回すために躊躇うことなく悪役を演じる.

 

僕もまた,悪役を演じることが,そこそこに得意である.

しかして僕も嫌われたくはないため,誰かに嫌われるたびに,僕の心は傷ついていく.

誰かが悪を求めるたびに,集団のために喜んで擦り切れていく.

 

それは救われない,あまりにも悲しすぎる自己犠牲の精神だ.

それでも僕は,そのようにして誰かを思えることを誇りに思う.

偉大なる先人たちがそのようにして生きているのだから,僕もまたそうあろうと願う.

 

大事なのは,どう認識しているか

現代とは,客観視できることが重視される時代である.

しかし僕は,それが本当に大切なことだとは思わない.

 

テクノロジーの発展は,客観的な事実をあらわにする.

客観視された事実は,インターネットの普及によって溢れかえるほどにありふれたものとなった.

そんな中で,なぜ人は客観的事実を人の口から聴きたがるのだろうか.

 

「何を」認識しているかが大事だという風潮がある.

しかし本当に大事なのは,「どう」認識しているかのではないだろうか.

 

4人がテーブルを囲んで,机の中央にあるリンゴを観測しているとする.

何を認識しているかと聞いたら,全員がリンゴを認識していると答えるだろう.

だが,どう認識しているかと聞いたら,4者4様の答えが返ってくることだろう.

 

人は観測している物体の裏側にあるものを見つめることができない.

残念だが,それを知るためには対話を経る必要がある.

 

それは物理的なものでもあるかもしれないし,概念的なものであるかもしれない.

重要なのは,事実の覗き込み方にこそ個性が出るということである.

 

だから僕は,主観でものを語ることを好む.

むしろ,どこまで行っても主観でしかものを語ることができない.

 

僕という人間は,相当に近視眼的なものの見方しかできない存在である.

自分の周囲にある,ごく狭い範囲の物事を観測することが,非常に得意である.

だからこそ,遠くの見えないものを幻想として空想し,輪郭を想像する能力に長けている.

 

それは遠くの物事を正しく認識できないという欠点とトレードオフで手に入れた能力である.

だからこそ,誰かの主観を知ることに意義があるのだ.

 

僕に取って客観視が重要となるのは,おそらく僕を覗き込む時であろう.

僕は僕のことを,主観でしか覗き込むことができない.

そして僕は誰かの主観に映る僕から,ずっと目を反らしてきた.

 

今がきっと,向き合うときなのだと思う.

 

僕は就活をしている.

僕は僕と,向き合わざるを得ない.

せいぜい,貴重な機会として楽しむことにしよう.