超労働ボーイ1/6
今日も楽しくお仕事してきた。
自然言語を使った業務が多いが、これでお金がもらえているのだから文句は言うまい。
昨日に引き続き、今日も同期の尻ぬぐいをするなどした。
悲しいかな、チケットを整理してくれなかったり独断で間違ったことをしたり、それを報告しなかったり、根深い問題は色々あるようだ。
懸命に取り組んだことならばそれを馬鹿にする気はないが、僕もそうなりたいとは思わない。
人の振りを見て我が身とせねば、明日は僕がそうなる可能性もあるだろう。
プロトコルを守り、嘘をつかず、事実だけを元に考えを述べることのできる人物でありたい。
いやそれは当たり前のようにできるべきことなのだが、とても難しいことなのだ。
そして難しいが故に、目指し続けねば踏み外す道なのである。
文責を果たせなくなったとき、僕はこの職を追われるという実感がある。
そして責を果たすには、やはり誠実でなければならないのだ。
誰もやりたがらないが故に、僕がやるのだ。
幸いにも、僕は逆張りが大好きなので、誰もやりたがらない業務をこなすことに抵抗はない。
文書作成、みんな嫌いなんだなぁ…
社内を見ていると、きちんとした文書を作れる人間は例外なく優秀である。
そういう優秀さを身につけるのもまた、エンジニアリングの一環なのだ。
労働で一番嫌なシーンは、同期のミスを詰めねばならぬ時だ。
なにせ問題は解決せねばならぬし、そのためには事実を正しく認識する必要がある。
人為的なミスの多くは、誤った認識から生み出される。
ミスをするということは認識が間違っていることに他ならないのだから、その人物から正しく事実を知ることは困難を極める。
事実を突き止めるためには、対話をしなければならない。
しかしてミスをした人間は自責の念からあらゆる言葉を攻撃として認識するのか、対話がままならぬときがある。
そして僕自身も、ミスの弊害を被っているのだから、語気が強くなったりもする。
この不都合な現象に立ち向かうのは、酷く心が疲れる。
怒りたくはないし、そして見逃すこともできないのだ。
見逃せば僕は誠意に背くことになるからだ。
それはできないのだ。
嫌でも、立ち向かわねばならぬのだ。
同期から嫌われたいとは思わないが、結果としてそうなるのなら受け止めることにしよう。
この記事は僕の言い訳でもあるし、決意でもあるのだ。
そうでもしなければ、どうして身内の不祥を正すことができようか。
歪んだ認識のツケは、いずれ現実で埋め合わせられる。
ならばせめて、その歪みだけでも理解をし、やがて訪れる現実を少しでも、受け入れる準備をしておこう。
それが僕にできる、最大限の防衛だ。
そんな感じの1日だった。
愛せずとも楽しみ、赦せずとも受け入れ、昨日を誇りに明日に励む所存である。