世間一般的には僕の感じていたつらみなど大したことではないのかもしれないがそれでも僕はつらかった
今日も楽しくお仕事してきた。(仕事が終わる前から下書きを作っておくことで仕事を楽しむという高等テクニック)
そう、この部分は朝の通勤中に書いた。
こういうセコい作戦も、世渡り術のひとつと言えるだろう。
記事の投稿自体は、お仕事が終わってからするので問題はない。
まぁそれにしてもくだらない書き出しをしているものである。
と、お仕事が終わって帰宅中の僕はそう思っている。
お仕事の大変さを実感しつつ、前に進む日々である。
今日はとりわけ、つらみのあるお仕事にもなった。
いや僕はそんなにつらくないし、むしろ楽しんでいたのだが。
同期のミスとか、そういうのがあったりして「もっと僕が強ければ、フォローもできたしミスもなくせたのに」という念が生じたりしたのである。
まぁ年末だし、1年の疲れは出て当然である。
弊社の規則はゆるいけど、お仕事の内容としては紛れもなくプロフェッショナルのそれである。
大変なのは当たり前で、それでも挑まねばならないことなのだ。
新人らしく文句を垂れつつも、やることをやらねばいつまで経ってもアマチュアなのだ。
大成したいわけではないが、自分ごとの範囲は増やしたいと思う。
そう宣言したのは他でもない僕自身なので、その呪いと祝福に従い、人生を歩むしかないのだ。
そういう意味では、やはり強くなりたいのである。
大事を成したいわけではなく、小事に寛容になりたいのである。
僕の性根は、やはり弱きものに根差しているのだろう。
救われずとも、立ち止まらずにはいられない。
愚かだが、そういう血を、僕は継承している。
いや僕はそれほど血を残したいという気持ちはない。
多分、両親もそうなのだろう。
血統ではなく誠意こそを、僕は継承しているのだ。
だから、血の繋がりを理由にして自分のふるまいを型に嵌めるのは、不誠実なのかもしれない。
そんなわけで、僕はやはり感性というものが他者と比べてズレている。
利他的であるという行動原理を、善意のままに実行できてしまう。
自分がミスしたわけじゃないのに、どこかに自罰的な、歪な自己責任を感じている。
こういうつらみは、きっと余裕がある者特有のつらみなのだろう。
嫌なことを考えるものである。
そういう一歩引いたところでスカしこんでいるから、いつまでもそれを理解できないのだ。
本当の当事者になる方法など、考えずとも実践をすればよいだけなのに。
そういう自己憐憫に耽っている自分が、嫌になる。
それでも、前に進まねばならない。
なんか具体的に何があって何がつらいねって言えないのがつらかったりもするのかもしれない。
守秘義務とか、そういう構造の影響もあるのだ。
まぁ義務なので守るのだが。
文句を垂れても腹は膨れない。
美味い飯が食えるなら、現職で戦うのが僕の望みである。
良い人たちばかりだし、良い環境だしね。
そういう葛藤もふくめて、楽しんで勤しむ所存である。