楽しむことで救われる
今週も楽しくお仕事してきた。(決めセリフ)
決めセリフも決まったので、今週はパーフェクトであった。
いや完璧ではないのかもしれないが、完璧だと言い張ることで、今の自分を認めようとしているのである。
不完全であるが故に、パーフェクトなのである。
それを認め、受け入れることを、少しずつだが、僕は学んだ。
パーフェクトな労働の終わりを飾ったのは、パーフェクトな飲酒であった。
いわゆる飲み会に相当するイベントだ。
就活をしているとき、僕は飲み会なんて絶対に参加してやるものかと思っていた。
思っていたが、社長もメンバーも面白い人ばかりなので、誘われたらホイホイついていってしまうのである。
酒と料理の趣味が合うのは大きい。
美味い飯と美味い酒は、幸せの方程式である。
ベロベロではないが、安い酒をあおって頭痛とともに眠りにつくよりも、遥かに幸せに近いものを手にしている。
金持ちというのは、つくづく罪深い堕落を知る者である。
きっと、たまになのが良いのだろう。
新社会人の収入として、そう思うことにする。
大人を極めたら、健康のために美味い飯に制約がかかる。
それはそれで不自由だし、だからこそ飯の善し悪しが続くのだ。
人の生とは、美味い飯を美味いと感じられるよう、そのようにデザインされているのかもしれない。
そう信じられるくらいには、大切な時間というものを得ることができていると思う。
僕なんて人間は、薄皮を剥ぐまでもなく、その危険な本性を露わにして生きている。
狂気を認めてもなお、正すこともせずにのうのうと生きている。
正しく生きることなど、土台無理な話なのかもしれない。
ただ、正しい答えを導かなくとも、正しい思想のままに生きたい。
生きながらに想い続けた願いなのだから、成就されなくては困る。
そしてそれは成果ではなく、道程にこそ栄えるものなら、やはり生きることに真摯であらねばならないだろう。
生を悦ぶことで、誰かにもっと優しくありたいと願う。
このブログ、こんなことばっか書いてる気がする。
が、まぁそれでいいのである。
ようは僕が僕の思想を書いて、僕が少し楽しめるのなら、それは多くの事柄よりも素晴らしいものなのだ。
願わくば、その利己心が誰かの救いにならんことを。
良い休日になりそうである。