イドのなんらか

TRPGしたりキャンプしたりするITエンジニアの人間が書く雑記

悪法だがそれでも法である

嫌いなものに支えられて生きる

人間は同じモノが集まり,同じモノを愛し,同じものを嫌う.

そういう生物である.

だから自分たちさえも嫌うし,そこで諍いもする.

 

同じであることは,価値がある.

同質であることは,人間である以上は抗いがたい魅力なのである.

 

郷に入っては郷に従えという言葉がある.

インターネットに生きていると,それはより顕著に守らねばならない法則となる.

 

コミュニティは,どこかにその長を置く.

明確な長が居なくても,法というものは必ず何処かに存在する.

真の意味で民主的に運営されるコミュニティは,どこにも存在しない.

 

世界というものは,なかなかどうして理想的でない.

嫌いなもの,目をそむけたいものが,必ずどこかに存在している.

 

僕はきのこが嫌いだ.

食うのももちろん,見たりするのですら相当な嫌悪感を抱く.

それでも分解者である彼らはどこかに存在し,今も有機物の分解の役割を担っている.

僕はきのこを食べずとも,きのこが無ければ生きることができない.

 

猫の地球儀」を読んだ後,少し考えていた.

 

僕は僕の信じる論理に従い,多くの既得権益やその構造,仕組みなど,モノ・コトについて,公憤を感じてきた.

それはクレームで,正しい憤慨であった.

それが正されれば,良い世界が訪れるのだと,そう思っていた.

 

しかしそれは浅い考えであった.

仕組みを壊すのは簡単だが,作るのは難しい.

人を傷つけない選択肢は,簡単に選び,貫き通せるようなものではない.

だから,見ないこと,触れないことを法とすることで,多くを守るシステムが成立した.

 

江戸時代は,滅び,過ぎ去った文明である.

徳川家の腐敗や怠慢は,その後の時代に多くの遺恨を残した.

だから徳川家は愚かである.

 

そんな論理を,僕は盲目的に信じていたように思う.

黒船は解放と発展を持ってやってきたのだと,そう信じていた自分がいる.

 

しかしその時代に生きている人間にとって,それは痛みでもあったはずだ.

変化を前にして傷を負わない人間はいない.

変化とは痛みであると,僕は過去にその言葉を残している.

痛みは,そのようにしてもたらされもする.

 

良し悪しの話ではないのだろう.

変化というものは必ず訪れるもので,むしろ変化しないことの方が難しい.

ただその変化が急激であるほど,痛みが大きくなるだけなのだ.

 

何が言いたいかというと,巨悪を討っても世界は良くならないということである.

五輪中止論とかを見ていて,そう思う.

 

僕は東京五輪を誘致しようとしている前の段階から,国内開催に否定的であった.

老人たちの思い出の再生産に付き合いたくもなかったし,オリンピックというイベントを間近で見たいという感情もなかったからだ.

経済とか人流物流の話とかもあったけど,それを抜きにしても僕はオリンピックを国内でしてほしくないと,内外に言ってきた.

 

コロナ騒ぎが大きくなるにつれて,中止論が台頭するようになってきた.

正直,彼らの言い分はあまり好きではない.

今になってようやく止めたいと言い出していて,それは弱者のためであると,そういう言論である.

 

しかしそれは誇大広告とスポンサーというマジョリティ側の都合が出た言葉であって,決してマイノリティを尊重するという目的があったわけではない.

老人たちの都合で五輪は誘致されたし,老人たちの都合で五輪は準備されたし,老人たちの都合で中止を求められたりもした.

それを止める手段は,少なくとも僕の手にはない.

 

壊れろと言い,願うのは簡単だと思う.

それを実行することもまた,難しいことではない.

確信犯になれれば,五輪会場で世界規模のニュースに乗ろうとすることも,そう難しいことではない.

 

しかしそれは,人が願うべきでない思想だ.

痛みの上に成り立つ革新を信じ,それを実行してしまえるほど,僕の心は誤っていない.

 

黒船とは,つまるところそういうものだったのではないかと,そう思う自分がいる.

多数の痛みの上に成り立つ変革を,そのような名で読んだのだと.

 

いろいろと話しが跳躍したが,思考の中にも学びはあった.

それは,誰かの痛みを許すということだ.

 

僕は今,急速に変化をしている.

就活という変化を前に,多くの痛みを抱えつつ前に進んでいる.

 

僕の願いの一端に,人を傷つけたくないというものがある.

それは裏を返せば,誰かの変化を許容したくないというものでもある.

 

僕は誰かの痛みにこそ,寛容であるべきなのだ.

変化とは身近にあり,多くの者はそれを受容して生きている.

僕がそうであるように,多くの者もまたそのようにして生きている.

 

誰も傷つけたくないという願いは,その現実を歪める思考だ.

そしてそのツケは,いずれ現実において埋め合わせられる.

 

みんな,変化をしている.

今の僕にとって,それは悪法だ.

それでも,それが法だ.

 

現実に生きる以上,その法は絶対である.

目を背けることはできても,その動きを止めることはできない.

 

僕も,そのように生きるのだ.

そう決めたのであるから,そうするのだ.

 

明日は午後に面接がある.

飾らない自分を見せて,ここまできた.

明日もそのようにしよう.

 

そしてそのために,今日を終える準備をするのである.