思考と感情の境界に生きる
思いと想いがすれ違う
僕は多くの自分を,自分の中に飼っている.
人と話しているときの,明るく理髪で勤勉で,生真面目で誠実で真摯で謙虚で,ユーモアがあってアクティブな自分は,本当の自分なのだろうか.
それとも一人でいるときの,暗く怠惰で脆弱で,惰弱で愚鈍で根暗で邪悪で,ネガティブな自分こそが,本当の自分なのだろうか.
使い分けは,良くできている方であった.
むしろ,隠さなければ行けない本性を強く理解し,制御しようと試みている方の人間であった.
僕の性根は結構な歪みっぷりを誇っているし,趣味の悪さで言えば相当な側の人間だと思う.
二次元オタクと呼ばれる人種の中でも,さらに趣味が先鋭化しているし,アングラのさらに深いところに住まう人間でもあった.
だからまぁ,こうした僕にとっての日常,誰かにとっての非日常は,覆い隠すに限るのだと,そう思っているわけである.
外に出ると,そういう僕は覆い隠される.
そして人当たりの良い,おしゃべりな自分が顔を出す.
相当にうるさい人間であるが,相当に善良な人間である.
人前では必ずこの自分を出す.
汚い自分は使わない.
どちらが本当の自分なのか,わからなくなるときがある.
だからまぁ,それが不安なのである.
ひょんなことから僕は邪悪な僕に染まり,それを外に出そうとするんじゃないかとか.
善良な僕だけになって,薄暗い楽しみを忘れてしまうんじゃないかとか.
そんな空想に耽っては,自分を愚かしく思うのである.
就活してきた
こんなことを書いたのは,今日も面談をしてきたからである.
いつもブログに書いている,面談が面白い企業である.
日常と仕事の境界について,色々と対話をした.
僕にとって,仕事や勉学などは日常の外にあったから,そうした不安からその話題を切り出した.
どちらもひっくるめて自分なんだという,当たり前だが,当たり前に受け入れることの難しい結論を,対話の果に得た.
両面性を受け入れて前に進むことは,簡単なようでとても難しい.
難しいが,価値のあることだ.
僕にとって価値があり,意味のあることだ.
割合として,望む方を増やすことは間違っていない.
それでも,薄汚い本性は誰だって多少は持ち合わせていて,それを持ったまま生きている.
僕だけがそれを悪と断じ,封じ込めるのは,間違った考えなのだろう.
怠惰な僕は,存在する.
余裕があるから,そうなるのかもしれない.
逆に追い詰められているから,そうした性根が育っていくのかもしれない.
一つのことがわかると,また別の不安がやってくる.
これも生きていることの証明である.
せいぜい楽しむことで,供養してやろうと思う.
なにはともあれ,今日も面談をしてきた.
自分を出す事はできたし,話したいことも話せたと思う.
時間はいくらあっても足りないが,それも生きることの宿命だ.
後は相手の受け取り方次第だ.
僕はがむしゃらに,自分の本性をさらけ出した.
それをどうみるかまでを,僕は相手に指示することはできない.
それでも,良い結果をと願わずには居られない.
結果を開けるのは,いつだって怖い.
それでも,合否に関わらずに僕の人生は続く.
幸せになる覚悟は,できている.
覚悟はしたと宣言したのだから,僕は幸せになる.
就活で得た学びだ.
言霊は,少なくとも僕の人生には存在する.
よし.
今日もよく頑張ったぞ,俺!