イドのなんらか

TRPGしたりキャンプしたりするITエンジニアの人間が書く雑記

すごいやつが成功するとは限らないけど成功しているやつはだいたいすごい

ひろゆきの本を読んだ

以前に図書カードで買った本をまだ読んでいなかったので,読んだ.

「1%の努力」という本である.

f:id:id-no-nannraka:20210530181741j:plain

ひろゆきの本

2ちゃんで有名なひろゆきが書いたやつらしい.

タラコくちびるに印税を渡すのはなんかシャクではあるものの,店頭でタイトルを見たら興味が湧いたので衝動買いした.

まぁ僕がかつて2ちゃんでひろゆきに発生させた広告収入に比べれば,そこそこに安い買い物であるはずだ.

 

LIFE SHIFTとかを読んでるときは,この本を読まずに積んでいた.

あとは就活とかいろいろあったので理由をつけて読まずにいた.

そして今日はそこそこに暇で,読まないという言い訳が立たなくなったので読んでみた.

アルバイト中だが,今日はやることがなかったので読書をしていたというわけである.

 

この本をまとめると「人生なるようになるけど,賢く幸せな選択肢を掴むために,ちょっとだけは努力してみるといいかもね」という内容である.

後はひろゆきの過去話と,そこから得た教訓のようなものが綴られていた.

 

読んでみると,考えさせられるトピックが結構転がっている.

とりあえず,僕にとって気になったものをいくつかまとめて,自分なりの発見や答えを書いていこうと思う.

 

片手は空けておいた方がいい

何かチャンスが降ってきたとき,両手がふさがっているとそれをスルーしてしまう.

だから片手は空けておいた方がいい.

というのがだいたいの要約だ.

チャンスを掴む練習よりも,チャンスを掴める状態を維持することが大切なのだという.

 

物事における自分のキャパシティは限られていて,それ以上の物事をなそうとするならば,何かを諦めるか,もしくはキャパシティを拡張するしかない.

チャンスがやってくるということは,同時にそれを掴むかどうかという選択肢を突きつけられることでもある.

多くの人間は何かを諦める必要性に駆られ,結果としてチャンスを諦めるという選択を取る.

 

なぜならば,チャンスとは不確実なものであるが,今自分がいる場所は既知の領域であり,安心感を伴う幸福を与えてくれるものであるからだ.

現状維持バイアスと言っても差し支えはないだろう.

 

しかしてチャンスはチャンスであり,それを掴んだ者から幸福を手に入れるのも必定である.

だからこそ片手は常に空けておいた方がいいというのが,ひろゆきの言であった.

ちなみに彼は両手を空けて生きてるらしい.

 

チャンスというものは思いがけないタイミングで僕らの前に現れ,そして一瞬で居なくなってしまう.

だからそれを掴むためには,余裕を持っていないといけない.

 

端的に言うと,チャンスを掴みたいならヒマでいろ,ということらしい.

それは時間的な意味合いでもあるし,精神・心理的な余裕でもある.

どちらにせよ,目の前にきたチャンスを掴むには,どこかしらに余裕を持っていなければならない.

 

チャンスを掴んだ後にその先で幸福を得られるかは,その人次第である.

その見込みがなければ降ってこないチャンスもあるだろう.

しかしチャンスが降ってきてもそれを掴む余裕がなければ,その機会は永遠にやってこない.

だからチャンスを掴みたいと思うのならば,まずはその余裕を持つべきであるというのが,ひろゆきの現実的思考らしい.

 

さて,僕は片手を空けることができているのだろうか.

振り返ってみると割と僕は両手がふさがっている状態にあるのかもしれない.

 

ひろゆきの言う「両手」というのは,ある種の例え話であるように思う.

仕事として成り立つメインストリームのタスクと,それを支える非日常,言うなれば趣味や家族の時間というサブストリームのタスク.

それらの並行して進んでいくタスクの中にある一定の余裕があるとき,僕らの片手は初めて開かれる.

それらのタスクに対してゆとりをもって,悪く言えば不真面目に接していると,僕らは片手を空ける余裕をもつことができるのである.

 

そう考えると,やはり僕は両手を塞ぐ生き方しかできない.

すくなくとも今は,そういう人間であるように思う.

 

多くの人は,多くの物事を両手でマルチタスクにこなしている.

しかし僕はなかなかに不器用で要領の悪い人間であるのか,マルチタスクに物事を処理することができない.(もしくは,著しく苦手である)

 

僕は物事を成す際に,両手を使ってシングルスレッドにタスクをこなそうとする.

何かをやるときは,0か100でエネルギーを割こうとする.

だから必死こいて生きているときに,チャンスを掴む余裕などない.

すべてを吐ききって両手を開放した時にだけようやく,僕は別の何かをする余裕が生まれる.

 

きっと僕がスルーしてしまったチャンスはたくさんあったのだと思う.

直近で言えば,去年の就職活動でないがしろにした縁が,まさしくそれだ.

活力を取り戻すことに精一杯で,僕はその周辺にあったチャンスをたくさん見逃してきた.

 

おそらくは肩の力と息を抜いて,もう少し落ち着いて生きる方が賢いのかもしれない.

まぁ賢い生き方が本当に僕を幸福にするかはわからないのだが.

それでも現実に順応しつつ,道から外れた先に幸福を見つけた人間がいう言葉なのだから,きっとそれは真実なのだろう.

 

「チャンス」という言葉を「変化」と読み替えて考えてみると,僕にとっても馴染みが生まれてきそうだ.

主として,人間は現状維持を好む.

保守的に生きることは,原始時代から続く生物としての人間の性だからだ.

そして現状維持に偏った人間がいざ変化に直面する際に用いるのが「努力」という言葉だ.

変化を望んだ時に「頑張ればなんとかなる」と,自分を鼓舞するのである.

 

しかし悲しいかな,「頑張ればなんとかなる」のは「努力ができる才能」を持った人間だけである.

量の問題で済むなら頑張ればなんとかなるだろうが,困ったことに多くの変化は量に加えて質を伴う.

だからこそ,肌感覚で努力できてしまう人間以外が努力して変化することは難しい.

 

僕は心のどこかで「頑張ればなんとかなる」と思っている.

自分には努力できる底力があるのだと,そう思っている.

しかしそれは天才が持つ才能であり,天才でなければ実現はできない.

 

まぁ努力の天才であるかどうかを知るためには,一度努力をしてみなければならないのも確かだ.

そして僕は一度,大学院でそれを試した.

結果としては,僕にはその才能がないことがわかった.

求める理想を達成するためのキャパシティもバイタリティも,僕には不足していたのだ.

 

ならば現実的思考として「頑張ればなんとかなる」という幻想を拭い去ることは,僕にとってはきっと大切なことなのだろうとも思う.

頑張ってもなんともならないことも,世の中にはたくさんある.

それを認め,理解し,人を頼り,解決するチャンスを待ち,それを掴めるようになったほうが,結果として「なんとかなる」のだ.

 

その上で「頑張ることでなんとかしてみたい」という気持ちを,大事にしてきたい.

僕はきっと,ひたむきに頑張らずには居られない人間なのだ.

できなくてもやる.

結果が幸福をもたらさなくても,その過程に幸福を見出すことが,僕にはできるはずだ.

そうした青臭い「若さ」を持ちながら人生を生きてみようと思った.

 

というまとめにつながるトピックであった.

うん.

文を締めるのは難しいね.

 

割と人間,ろくなやつがいない

ひろゆきが言うに,世の中の人間は概して,ろくなやつがいないのだという.

一見おとなしく見えていても,化け物のように醜い性格をしているやつはごまんといる.

ステータスとして高い地位にいる人間にも,ろくでもない性格の持ち主や,身分に見合わないような無能だって当然のようにいる.

 

はたから見るとすごい動いているようで,その実意味のある行動をしていない人間もいる.

一見するとすごいボケっとしているようで,内面ではものすごい思考を張り巡らせている人間もいる.

 

大体の人間は,皮を一枚剥げば内面になにかへんてこなものを隠し持っている.

そして割とその中身は,ろくなものではないことが多い.

 

やまゆり園の事件があった.

普通の人間として生きてきたある一人の男が,突然内面に宿していた闇を開放して,とんでもないニュースになった.

きっとそれを解き放つだけの理由があったのだろう.

入園者や関係者のそうした内面を覗き見る機会があって,そうなってしまったのかもしれない.

真実など知る由もないが,内面に何かとてつもないものを抱えている人間は,思いも寄らない場所にいる.

 

神奈川県警もその一例かもしれない.

警察という立場でありながら,不祥事を行うことが過去にいくつかあった.

きっと彼らは,警察でなくてもそうした行動を行う動機が存在していたのだろう.

別にそれが良い悪いではなく,事実としてそういう内面を持ち合わせている人間は存在する.

それが警察という組織であっても,ろくでもない人間は確かに存在するのだ.

 

重要なのは,そうした人間は至って普通の人間であること,そしてその一部に自分という人間もまた含まれているという点である.

自分も含めて,人間というのは割といい加減な生き物であるのだ.

 

そしてそうしたいい加減な生き物たちが集まっているのが,社会というものの正体である.

自分の見えていないところで,人間という生物はいい加減に生きているのである.

 

そして案外,社会というシステムはチョロいものでもあるのだという.

バイトはサボるし,社員は遅刻するし,社長は昼間からキャバクラで遊んでいるし,そうした不完全かついい加減な動きは,どこにだって存在している.

意外にも,それで回っているのが社会なのである.

 

僕はそこそこに品行方正で,他人を害さず,善良な市民を装って生活している.

勉強もそこそこにでき,求められた事や請われた事は"最低限度"の範囲でこなすこともできる.

そういう,至って普通な人間だ.

正直,僕は僕のことをそこまで優秀だと思っていない.

僕は僕こそが人間という生物の平均値であり,また底辺であると,そう捉えている節がある.

 

ところがどっこい,世界にはどうやら僕よりも優秀でないと定義されてしまう人間がいるらしい.

入試の偏差値では,50以上の人間が半分,それ以下の人間も半分いる.

僕は60ちょいの大学に通っていたらしいので,これが学力を示すなら大学生の上位15%くらいには位置している.

だから基準線を僕のラインに引くなら,85%くらいの同年代の人間は,学力的に僕よりも優秀でないことになってしまう.

 

僕自身,大学入試の偏差値は,あまり大切だと思っていない.

実際問題として,早慶の出の人間を別にすごいとは思わないし,東大生に何かすごい畏怖を抱いているわけでもない

無名Fラン卒でもすごい人間はいるし,専門卒でも化け物のような能力を持った人間はたくさんいる.

そしてそういう奴らの存在を,実態として知っている.

だから偏差値というツールで学力や能力を測ることの無意味さは,まぁ理解しているつもりだ.

 

なにより,僕が尊敬する両親は,どちらも高卒だ.

芯を持ち,社会に対して誠実に向き合い,自身の弱さを理解して,人を愛して生きることのできる,まさに「かくあるべし」という人間そのものだ.

同じように尊敬している兄に至っては,なんと中卒である.

別に学歴がなくても,したたかに,そして秀でた生き方をしている人間は,確かに存在するのだ.

 

なにが言いたいかというと,人に対して基準線を引いて良し悪しを捉えようとするのは,割と不毛な作業だということだ.

何を成したのか,何をもたらしたのか,どういうプロセスを踏んできたのか,何を思っているのか.

そうしたところに,個人の核が存在するのだと思う.

 

ろくでもない本性を持った人間が集まって,今の社会というものは成り立っている.

他人にひけらかすことを望まれない一面というものを,誰しもが抱えて生きている.

問題なのは,それが他者に向けられた時に実害を伴う点にあるのだ.

 

逆説的に,バレない範囲でなら,もっと言うと迷惑がられない範囲でなら,そうした本性を解き放つことは,決して悪ではないのである.

バイトがサボっていても,時間内にやることやっていれば誰も困らない.

社員が遅刻しても,業績が上げられるのなら文句はでない.

社長がキャバクラ通いしていても,重要な商談の電話に出られるのなら問題はない.

 

まぁ僕は生真面目なので,あまりサボる姿勢は見せたくないし,遅刻どころか2時間前行動をするし,そういうお店にもいかないのだが.

要は,迷惑をかけない範囲でモラルに欠けることをしている人間はごまんといるし,何ならそれがスタンダードであるということだ.

 

性善説で生きている人間もいる

さて,人間はろくでもない生物であるが,同時に気持ちのいい生き方をできる生物でもあるらしい.

金銭的に貧しかったり,資源に乏しかったりしても,人は幸福を見出すことができる生物である.

人という生物は,昔から関わり合いの中で幸福を得て,それを共有して生きてきたのだ.

 

ひろゆきが言うには,そうした善意は世界中のどこにでも存在しているのだと言う.

具体的なストーリーは本の中に書いてあるが,ミャンマーとかタイとかフィリピンとか,様々な国や地域において,人という生物は善意を持って生きてもいるらしい.

 

面白いのは,善意の中で生きていると,相対的に自分に対して罪悪感が湧いてくるという言だった.

だからこそ,ひろゆき性善説の中で生きることができるのだろう.

善意を与えられているとむずかゆくなってくる"あの感覚"は,僕も馴染みのあるものだ.

 

相手が本心から善意を向けているのかどうかは,結局の所主観でしか判断がつかないものではあるが,それでも善意は存在するのだと,僕はそう思う.

善意で行動したことのある人間なら,きっと誰もがそれを知っているのだ.

 

僕は善意で行動することが,割と自然にできる人間だ.

主観において気持ちの良いと感じる行動を,本能的に察して実行することができる.

 

交差点で誰かがころんだのなら,安全を確保するために駆けよる.

落とし物を見つけたら,電車に間に合わなくなることを承知の上で交番に届ける.

自己犠牲的だが,それでもそこに幸福を見つけることができるのは,確かに僕の中に善意というものが宿っているからなのだと,そう信じることができる.

 

そしてそうしたものは,他者の中にも宿っているのだ.

だから僕はあのタラコくちびるのことを,尊敬しているのだろう.

ひろゆきという男は,善意が存在することを知っているのだ.

 

執着しているものを知る

自分の人生において何がないと困るのかを知っておくことは,生きる上で重要である.

それは幸福の最低条件とでもいうべきもので,「優先順位」と言い換えればわかりやすい.

 

ひろゆきは「生きる意味なんて存在しない」と,この本の中でそう説いている.

ひろゆきらしい答えだよなと,そう思う.

まぁ彼はそう思うと言っているだけで,実際にどうかとか,他の人がどう思っているかとかは別だが.

 

その前提がある上で,「じゃあ死ぬまでに楽しく過ごせたほうがいいよね」とも本の中では語っていた.

人生を通じて自らが変えられるものはあまり多くなく,どちらかといえば与えられたものの方が多いというのが現実である.

だからこそ自分の手が届く範囲での幸福は,得られた方がいい.

 

僕の人生観にも通じるところがあるなと思う.

僕自身,生きることの本質的な意味を見いだせずにいる.

「振り返ると今までに生きてきた道のりに幸福が満ちていて,それが誰かの幸福に繋がっていればいいよね」というのが,僕の人生に対する意味付けというか,ある種の理想形だなと,そう思っている.

 

ひろゆきの人生観と少し違うのは,僕は主観において誰かの幸福を望んでいるという点にあるのだと思う.

僕は自己の幸福の実現のために,絶対条件として他者の幸福が必要なのだ.

(まぁ観測できる範囲での,という接頭辞は付くのだが)

 

さて,人生において個人ができることは限られている.

少なくとも寿命というリミットが存在する以上,僕が成せること,僕が生み出せる幸福にもまた,限界が存在する.

無限の時間がない異常,相反する願いを叶えることは,人生においては難しい.

だから何を優先して生きるのかは,常に考えておく必要がある.

 

本では「この壺は満杯か?」という話を引用して,優先順位の重要さを説いていた.

詳しくは検索すれば出てくるので内容は省く.

www.google.com

 

自分にとって何が重要なのか,替えの効かないものは何かを知ることは,有限な人生を幸福に過ごすために必要なプロセスだ.

それを「大きな岩」として定義することは,合理的な方法論である.

その「大きな岩」こそが,人生における「優先順位」なのである.

 

優先順位を明確にし,言語化する試みの方法論として,「ロジックの世界」と「趣味の世界」を切り分けることを,本の中では説明していた.

これは言葉通りに,合理性に基づいて集合知が優先される世界と,感情面や主観が何よりも優先される世界の,2つの世界である.

 

合理性が役に立たない趣味の世界においては,議論によって争うことは不毛である.

議論や競争そのものが趣味として成立する状況を除き,「どっちでもいいよね」という気持ちを持って接することが好ましい.

 

ロジックの世界においては,何よりも合意や合理性が優先される.

そして多くの場合,それは仕事に結びついている.

ロジックの世界における物事は,自分の優先順位から逆算して合理的に取捨選択をしなければならない.

 

取捨選択をする以上,その方法論も必要になるだろう.

本では「修復可能か?」という基準で,選択肢を比較する方法を説いていた.

 

人生には,期間限定のイベントが多く存在する.

24歳にもなった僕はもう,小学校に通えないし,中学受験もできないし,普通高校で青春を謳歌することもできない.

人生は時間に支配されているため,多くのイベントは期間限定で消費されていく.

 

だから後になって取り返しのつかないような幸福を取りこぼすことのないように,優先順位を決めるのである.

ある物事に対して同列に魅力を感じるときは,不可逆的に戻らない方を優先させるのは,理にかなっているのだ.

 

最後に必要なのは,行動指針となる「ゴール」だ.

このブログでもたびたび言及しているように,未来は予想不能で不確かさを多分にはらんでいる.

だから「ゴール」もまた,常に揺れ動く.

 

だからこそ,「ゴール」を定めると心理的に安全になれる.

なんとなくでも自分が幸福に向かっていると思える「ゴール」が存在すると,人生が楽になる.

達成できるできないはさておき,ゴールがあることで楽に生きられるのである.

 

これらを明らかにすると,逆に自分が「やらなくていいこと」「やりたくないこと」も明確化される.

そうすることで,自分の優先順位を実態の伴った行動モデルに落とし込むことができるのだ.

 

……というのが,ひろゆきの言の要約である.

 

これもまた,僕に当てはめてみようと思う.

と,思ったが割と長くなりそうなのでこれは次回に回そう.

うん.

 

 

話のネタができた 

この本の「前提条件」として,ひろゆきという人間は,なかなかに「環境」というものを突き詰めるのが好きな人間であるらしい.

人は出生ガチャとして生まれる国や場所,家庭を選ぶことができないし,生きる場所や教育の内容を選ぶこともできない.

しかも遺伝子情報は生まれたときに決まっていて,先天的な「才能」というものは必ず人間に存在している.

何より,人間とは一人で生きることのできない社会性生物であるから,生存環境のすべてをコントロールすることもまた不可能である.

 

僕なりに解釈をするならば,環境は個人を作るが,個人は環境を作らない.

この非対称性は割とあらゆるところに介在しているが,とりわけ軽視されることが多い考え方でもある.

重大な問題になり得るのは,それを無視して何かを成そうとする動きが多く散見されるという点だ.

故にまずはそれを理解するべきである,というのが「前提条件」の核となる内容だ.

 

他にもまぁいろいろなトピックがあったが,今日はここまでにしようと思う.

アルバイトと同時並行して本読んで記事を書いてたので脳が疲れている.

 

本の内容的には,それほど厚いものではなかった.

文字数も少なく,3時間程度で読了できたので読みやすい本だと思う.

ひろゆきもなかなかに最低限度の努力しかしてないことが,ボリュームからよく分かる本だった.

 

明日もまた就活してくる.

このブログでも度々言及している,面談が面白い企業である.

今日読んだこの本も,面談の話のネタにはなるだろう.

 

さて,今日はそんな感じの一日だった.

後は風呂入ってゆっくりして,明日の面談に備えようと思う.

 

よし.

今日もよく頑張ったぞ!!いいぞいいぞ~~~!!!

明日も頑張るんだぞ~!俺!!

うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお