イドのなんらか

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「嫌われる勇気」という本を読んだ (後篇)

有言実行していく

「嫌われる勇気」という本を読んだので,今感想を書いている.

昨日は3章までまとめた.

id-no-nannraka.hatenablog.com

今日はこの続きをまとめていく.

残すは4,5章,そして全体のまとめである.

 

今しばらく僕の駄文にお付き合いいただけると,これ幸いである.

 

ちなみになんかゴシック体と明朝体が文中に混ざっているが,これはメモからコピペした結果なんか書式も埋め込まれていたりしてそうなっているようである.

はてなブログのエディタだと何故かフォントをあとから編集できないので,そのままアップロードしています……

見にくかったら申し訳ない……

 

4章 どう関わるか

概要

心理学として人間について語る以上,人間をどこまで分割して考えるかは,前提として明らかにされるべきである.

人間の構造は分けようと思えばどこまでも分割できるが,アドラー心理学では,人間を個体までしか分割しない.

やろうと思えば人間は精神と肉体,脳や筋肉,神経系に至るまで分割できるが,アドラー心理学ではそうしない.

 

ある行動をした時,それを決定した時,人間という個体の総意としてそれをしたのだと捉える.

「脳がそう反応したからこうなった」「感情がそう処理したからそうした」という風には捉えず,個人という人間が,個体としてそういう行動をとったのだと捉える.

アカデミックな定義として,アドラー心理学では人間をそのように扱う.

これを「全体論」という.

 

アドラー心理学の基本的な考え方に「対人関係の不干渉」「課題の分離」というものがあった.

これは孤独になろうという思想ではなく,正しく距離を置くことを目的としたものである.

複雑な対人関係を解きほぐし,場合によっては切り分けて,対人関係で構成される世界をよりシンプルに見るための考え方である.

 

対人関係のゴールとして,「共同体感覚」というものがある.

他者を仲間と見なし,そこに自分の居場所があると感じられることを,共同体感覚という.

共同体感覚は「社会への関心」と言い換えても良い言葉で,「自己への執着」を「他人への関心」に切り替えていくことが,共同体感覚につながる.

 

どこまでを共同体とするかという議論に対し,アドラー心理学では,宇宙の生命体とか植物とかをあらゆるもの全部含めて共同体としている.

社会として定義されるような家族や職場,自治体,国家などには収まらず,過去や未来も含めてすべてが共同体に内包される.

僕なりの解釈をするならば,集合論でいう全体集合とか,グロタンディーク宇宙などが「共同体」なのだと考える.

 

途方も無い話ではあるものの,「共同体感覚」はアドラー心理学において重要な思想である.

「社会の最小単位は何か」という問いに対し,アドラー心理学では「わたしとあなた」が居る状態が,社会の最小単位であると答える.

これを拡張していき,「自分が世界や宇宙という共同体の一部なんだ」という実感が得られた時,共同体感覚を得ることができる.

 

共同体感覚を得るためには「所属感」の獲得が必要になる.

何かに属してたいという気持ちは,人間の普遍的な欲求である.

居場所を求めるのは,誰だって同じだ.

 

所属感は,共同体に属しているだけでは得られず,共同体に対して積極的にコミットすることで獲得できるものである.

具体的には,人生のタスクに立ち向かうことが,所属感を得ることに繋がる.

「私に何を与えてくれるか」から「私は何を与えられるか」にシフトし,仕事,交友,愛のタスクに踏み出していくことが重要なのである.

 

アドラー心理学では自己中心的な生き方を否定する一方で,人生の主人公が「わたし」であることは否定しない.

重要なのは,世界の中心に「わたし」がいるわけではないということである.

共同体の一部だからこそ,人生の主人公足り得るのだ.

 

人は自分が所属する「小さな共同体」への所属感を満たすために行動を起こすが,それが失われた時に幸福を手放してしまったかのように錯覚する.

共同体感覚が得られていれば,そうした「小さな共同体」すなわち「社会」からはみ出しても,より「大きな共同体」に属していると強く実感できるのだ.

「学校がすべて」「職場がすべて」「自治体がすべて」「国がすべて」と考えてしまうと,世界が小さくなってしまう.

共同体の外には,もっと大きな共同体が広がっていることを知り,そこに対する所属感を得ることこそが大切である.

 

小さな共同体で完結することは,危険性を伴う.

そこからはみ出したとき,さらに小さな共同体に依存する傾向にあるからだ.

例えば「学校」で起きたトラブルが原因で「家庭」というさらに小さな共同体に依存するようになり,引きこもるようになってしまうケースなどが挙げられる.

 

目の前の対人関係で悩んだのなら,まずは相手を「人間」と思うことからはじめる.

どれだけ能力的に優れていようとも,どれだけ年老いていようとも,どれだけ幼く未熟であろうとも,それでも相手は「人間」であるという一点においては対等である.

 

アドラー心理学では対等である関係,すなわち「横の関係」を重視する.

上下関係を伴った「縦の関係」は,明確に否定するべきものとしている.

 

「叱るか,褒めるか」という命題に対して,アドラー心理学では明確に「どちらもダメ」とする.

それはどちらも縦の関係であり,相手に介入し,相手の人生を操作する方法だからである.

「課題の分離」の考え方に基づくと,叱っても褒めても「他者を評価して介入する」というプロセスは変わらない.

 

褒められるということは,自分にはどこかに上限があって,その内に含まれていると評価をくだされる行為にほかならない.

だから褒められるほどに「自分は能力がない」とふさぎ込むことになりかねず,また評価者のいる共同体に対して依存する状態にもつながる.

そうした理由から,とりわけ人生に対する「評価」「介入」は,アドラー心理学では忌避される.

 

ではどうやって他者と関わるのか.

アドラー心理学では「評価」「介入」をせず,「勇気づけ」を用いる.

相手が人生のタスクに向き合う勇気を与えることこそが,もっとも大切な援助であると考えるのだ.

 

具体的な方法として,「評価」と「感謝」を区別するというものがある.

評価の言葉は,縦の関係で生まれる.

感謝の言葉は,横の関係で生まれる.

 

共同体に属するとき,人は人生のタスクを通じて共同体に「貢献」し,それを通じて獲得した共同体感覚から幸福感を得る.

貢献の実感は,評価されただけでは得られない.

なぜならば貢献とは,客観視されるものではなく,主観的に行われるものだからである.

故に感謝は貢献を実感するためのプロセスとして,評価とは明確に分離されて捉えるべきものなのだ.

 

「自分には価値があるのだと思えたときにだけ,勇気が持てる」

役に立っているんだという実感が共同体への所属感に繋がり,そのために行動する勇気をもたらす.

そのサイクルを生み出すのが,感謝というプロセスである.

「勇気づけ」は,感謝によって行われるのだ.

 

貢献という言葉を使うと堅苦しく感じるが,実際はもっとシンプルに捉えてもよい.

ここに存在しているだけで,自分には価値があるのである.

 

誰かが始めなければならない.

他の人が協力的でないとしても,それはあなたには関係ない.

わたしの助言はこうだ.

あなたが始めるべきだ.

他の人が協力的であるかどうかなど考えることもなく.

 

これはアドラーの言葉である.

「共同体感覚」とは酷く偽善的な考え方であるが,一方で偽善でなくすこともできる.

自分が為す善に疑いを持たず,共同体に貢献しているんだという実感と,そして勇気を持つことができれば,偽善は偽善でなくなるのだ.

少なくとも「あなた」の中では.

 

「横の関係」を築くことは,共同体感覚を得る上で欠かせないプロセスとなる.

今「縦の関係」に直面し,悩みを抱えているのなら,まずひとつだけ「横の関係」を作ることから始める.

 

人間は複数のライフスタイルを使い分けることができない.

「縦の関係」と「横の関係」を器用に使い分けることもまたできないのだ.

今「縦の関係」で悩んでいるということは,すべての関係が「縦の関係」に支配されていることを意味する.

 

だからこそ,どこかで「横の関係」を始めてみることが重要である.

友人でも,家族でも,恋人でも,一度「横の関係」を始めれば,すべての人間関係を「横の関係」として捉えることができるようになるのだ.

 

感想

3章とは打って変わって,僕にとってすごく理解できる,もっというと「馴染みのある」事柄が多かったように思う.

 

アドラー心理学の前提として,「人間を個体までしか切り分けない」というのは,すごく目的論的だなと思った.

逆にいうと,この説明だけで目的論の骨子をある程度理解できてしまったとも言える.

 

 

目的論では「人間って科学的・物理的に様々なプロセスを経て思考して行動するよね」という前提を無視し,「個体としてそう思ったからそうした」という部分にフォーカスを当てていたのである.

人間を分解すると,必ずどこかで原因論に行き当たる.

そのブラックボックスをそのまま「人間」として扱い,その上で思考しようというのがアドラー心理学の基礎だったのだ.

 

その前提のもとに立つと,これまでのもやもやが晴れてくるように感じる.

なるほど,アドラー心理学の思想家たちはこうした前提で議論をしていたのである.

 

さて「共同体感覚」の,とりわけ「共同体」という言葉の定義について,僕は非常に馴染みを感じた.

共同体とはすなわち,宇宙の総体だ.

 

アドラー心理学では「悩みはすべて対人関係から生まれる」「幸福もまた対人関係から生まれる」という考え方がある.

そして「課題の分離」という言葉があるように,自己と他者を明確に切り分けて思考する.

 

これらを総括すると,宇宙という共同体には「自分」と「自分ではないモノ」が存在していて,「自分ではないモノ」への関心を深めていける関係こそが「共同体感覚」なのだ.

少なくとも,僕はそう理解した.

 

実はこの思想は,僕が中学生くらいの時代から抱いているものでもあった.

僕は世界の上に立っているのであって,僕が世界を形作っているのではない.

だけども僕は世界の一部で,構成因子の一つで,今なお急速に形作られている歴史の一節である.

だから今ここに立っていることに,その歴史の重みに,感謝して生きなければならない.

そして歴史の一部となることを誇りに思い,感謝される存在で在りたいと願う.

中学生くらいの年頃から抱いている,僕の大事な青臭い哲学だ.

 

僕が今立っている大地よりも僕自身のほうが尊い存在だなどとは,どうしても思えない.

歴史として積み重ねられたものの重みは,僕の質量よりも遥かに大きい.

それでも自我が与えられて活動できているのは,ひとえにその歴史から生まれた存在であるからだ.

だからせめてもの感謝として,僕が存在したという事実が,これからの歴史を少しでも良いものにしてくれたらいいと,そう思っている.

僕の人生が救いに満ちたものでなかったとしても,僕が歴史の一部になれることを誇りにして生きたい.

そう思えなければ,どうしてこの世界を愛して生きることができるのだろうか.

 

これは原因論的な思想で,ある種の「信仰」と呼ぶべきものである.

誰に教わったわけでもなく,何から学んだわけでもなく,当時の僕は自発的にこの思想に至った.

今よりももっと汚く原始的な風貌をしていたインターネットに肩まで浸かり,今よりももっと不親切で醜悪なビデオゲームに囲まれて過ごし,何を思ったのかこんな思想を身につけるまでに至ったのだ.

 

このブログでも述べたことがあると思うが,僕の人生の目的はシンプルだ.

今いる現実を,ひたむきに生きたい.

振り返った道のりに幸福が満ちていたら良い.

その幸福が誰かの幸福に結びついていたのなら,これほど嬉しいことはない.

こうした思想を持っているのも,ひとえに僕が中二病をこじらせて至った哲学の賜物である.

 

目的論の考え方に基づいても,同じような形の思想が形成されているのは,面白いなと思った.

少なくとも思想の原型は,きっと同じようなところにあるのだろう.

そしてその原型の捉え方や扱い方が,僕のそれとは異なるだけなのだと思う.

 

そうした前提を理解できたのが,この章におけるもっとも大きな発見だ.

あとは細かい部分に対してもフォーカスを当てていこう.

 

「縦の関係」と「横の関係」については,概ね理解できた.

主従関係をベースにした「評価」や「介入」は共同体をより小さなものにしていく発想で,システマチックだが危険性を孕んでいる.

そこから脱却して「横の関係」を得ることで,より大きな共同体に目を向けよ.

というのがアドラー心理学における人間関係の基本なのだろう.

 

ただ「縦の関係」と「横の関係」は使い分けられず,どちらか一方だけであるという考え方には,僕はあまり賛同できない.

というのも,僕はどちらの関係もよく使おうと思えば良いものだし,悪く使おうと思えば悪いものにもできてしまうものだと,そう感じたからだ.

 

別に「縦の関係」が悪いものではないと,僕はそう思う.

今の時代においてはそれが悪い結果を引き寄せることが顕在化してきたからそういう論が目立つだけで,主従関係そのものが悪いことの証明にはならない.

 

「横の関係」とは,すなわち双方向性を重視するコミュニケーションだと思う.

互いを信頼し合うことで,自然と思いやりや感謝を持ち,

更に踏み込むなら「思いやり」や「感謝」という言葉や前提もなくなるのだろう.

それが当たり前になるのだから,わざわざ言葉として定義される必要性もなくなるのだ.

 

だけども僕は,その思いやりが前提になってほしくない.

上の立場にいるからこそできる思いやりもあるし,下にいるからこそできる感謝だって存在する.

みんなではなく,誰かに執着して生きることも,僕は美しい生き方だと思う.

そしてその関係はすべてが双方向性を持っていなくても,僕はそれでいいのだと,そう思いたい.

 

「縦の関係」は一方向性を持ったコミュニケーションだと,僕は解釈した.

言ってしまえば関係性に縛られたコミュニケーションで,

それが原因で発生する悩みやトラブルだってたくさんあるし,それで不幸になることだってある.

僕自身,それが原因で大学院を辞めることになった.

 

それでも,僕は「縦の関係」が悪いものだとは思えない.

それを悪用したり,危険な形で一方向性が発現すると,不幸の種になるというだけなのだ.

目的論的な考え方に沿って言うなら,これもまた使いようの話につながるはずである.

あり方から否定するのは,少なくともアドラー心理学という思想の矛盾であるように感じられる.

 

ありていに言えば,主従関係にあったっていいじゃない,共依存の関係にあったっていいじゃない,ということである.

依存関係にあるからこそ,言えることだってある.

そしてその関係だけで人の幸福が決まるわけでもないだろう.

問題なのは危険性を伴う程に「縦の関係」を煮詰めることなのだ.

 

やはり親は子を可愛がるという特権を持っているし,子は親に愛されるという特権を持ってもいる.

もちろん,そうでない親子だって世の中には存在する.

だけどもその先で,きっと別の形の幸福を,彼らだけのものとして得ていくのだろう.

 

横の関係では生み出すことのできない幸福は,存在するのだ.

少なくとも僕の思想の中では.

まぁ愛のある家庭で育ったからこういう思想になったのかもしれないけど.

 

人間は非対称性を持った存在で,どこまで行っても平等になることはできない.

だからこそすべての人間は「人間である」という一点において,少なくとも対等であるという考え方は納得がいく.

僕の思想もまた,そうした違いの容認から来ているものだ.

 

だからこそ思うのは,「斜めの関係」だってあったっていいじゃないかということだ.

なぜ「横の関係」でなければいけないのだろうか.

なるほど「縦の関係」だけだといずれ取り返しのつかない不具合が発生するのは,疑いようのない事実だろう.

しかし「横の関係」だけになったらなったで,それは幸福なのだろうか.

 

同じ共同体でも,関係のあり方が複数存在したっていい.

確かに幸福は人間関係から生まれるものだと僕もそう思っている.

しかして幸福は,思いも寄らない場所にだって存在する.

だから人間関係も複雑性を伴ってものとして捉えたって,別にいいんじゃないかと思う.

 

だから僕は「斜めの関係」を推していきたいと思う.

アドラー心理学には染まらないが,取り入れるべき優れた考え方もまた存在する.

そうしたものを積み重ねて,ネジ曲がった関係をも愛せるようになりたいのだ.

 

アドラー心理学は,世界をシンプルに捉える思想だ.

でも僕は,世界をより複雑化して観たい.

理由は簡単で,そっちの方が楽しいからである.

少なくとも僕にとっては.

 

そんな感じに長い感想が出てきた章だった.

おそらくこの本で語れるアドラー心理学というもののほとんどを,僕は理解してきているように思う.

(残りのページ数的にもそうだというメタ推論もあるけど)

 

あとはまとめの章を残すのみである.

 

5章 どう幸せになるか

概要

「自己への執着」から「他者への関心」へと切り替えることが,アドラー心理学では重要な考え方であった.

自己愛に満ちたナルシストも,自虐的な性格のリアリストも,どちらも「自己への執着」が強い人間である.

自己嫌悪が強いせいで,返って自分が自分に執着していることに気が付かないことはよくある話だ.

 

こうした思考の変化もまた,「共同体感覚」によってもたらされるものである.

では具体的にどのようにして「共同体感覚」を得ていくのだろうか.

 

アドラー心理学では「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」の3つをキーワードとしている.

人間関係を通じてこれらを実践することが,「共同体感覚」の獲得につながるのである.

 

「自己受容」とは,自己肯定を意味しない.

強みを持つことやポジティブ思考に囚われる必要はなく,できない自分を受け入れ,前に進んでいくためにこそ,自己受容は行われる.

できると嘘を付いてまで自己肯定をする必要はないし,むしろそれはなされるべきでもない.

肯定的に諦めることもまた自己受容である.

 

「他者信頼」とは,言葉のとおりに他者を信頼することである.

信頼とは,無条件に,懐疑心を持たず,ありのままの相手を信じることを意味する.

他者,つまり自分以外のモノを信頼することができれば,あとは「私はどうすればいいのか」だけを考えれば良くなる.

人は何かを疑うと,それを証明するものを探そうとする.

しかし,逆に何かを信頼すれば,それを強固にするものを探そうとする.

そのために,まずは自分から他者を信頼することから始めるべきである.

 

「他者貢献」は自分の価値を実感するために行われる,人生のタスクである.

自分を受け入れ,相手を信頼すれば,他者は仲間になる.

結果,仲間がいれば無条件に所属感を得られ,共同体感覚が高まっていき,常に幸福を得ることができる.

他者貢献とは,その所属感を得るための最後のピースである.

自己犠牲的に人生を過ごしてしまう人のことを「社会に過度に適応した人」と呼ぶ.

しかし他者貢献は,自己犠牲ではない.

自分の価値を実感するためにこそ,他者貢献はなされるべきである.

仕事は他者貢献の形の一つであり,お金のために働くのも仕事だが,そうでないもののためにも仕事はなされている.

共同体への意識を向け,「自分は存在するだけでも価値があるんだ」と思えれば,共同体感覚は常に高まっていく.

 

アドラー心理学の思想は偽善的なのかという問いに対し,本ではそれを否定している.

他者を敵と認識してなされる貢献は,偽善的である.

相手を理解し,信頼できていれば,貢献は偽善ではなくなる.

 

またアドラー心理学では「行為のレベル」で価値を判断しない.

できるできない,できたできなかったで価値を判断すると,自分ができなくなったときに非常につらい思いをする.

だからこそ,「存在のレベル」で価値を判断する.

 

ありていに言えば,「生きているだけでも価値がある」と自己を受容し,他者に信頼を寄せ,そしてそれを持ってして貢献となす.

そうした勇気を積み重ねて,人生のタスクに向き合うのである.

 

アドラー心理学では「幸福とは,貢献感である」と定義している.

目で見える貢献でなくとも構わず,何もしてなくても,貢献感を持てていれば,それが幸福になる.

 

承認欲求を満たすこともまた,貢献感を得る活動である.

重要なのは,それは貢献感の一部であって,全てではないということ.

より多くの貢献のあり方に目を向け,大きな共同体を意識できれば,承認欲求に依存して生きることもなくなる.

 

アドラー心理学は,主観の思想である.

だから,今この瞬間から幸福になれる.

そしてそうでない人は,いつまでも幸福になれない.

 

「幸せになる勇気」とは,「他者に貢献するのだ」という気持ちのことである.

逆説的に,その意思を強く持てば,今この時から幸福になることができる.

 

その変化のためには,大体生まれてきてから経過した時間の約半分は必要になる.

20歳ならあと10年を,40歳なら20年,60歳なら30年の年月をかけて,ゆっくりとアドラー心理学の思想を取り入れていくことになる.

 

感想

読んだ感想としては,「やはりな」というものであった.

というのも4章の感想で述べたように,この本で語られるアドラー心理学の全体像は,すでに得ていたからである.

あとはミクロの部分にどう肉付けがされるかというのが,5章の内容であった.

 

「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」というキーワードは,思考のプロセスを変化させる上で具体的に役立つものだと思う.

 

特に「自己受容」に関しては,思うところが強い部分だ.

できない自分を受け入れるということを,僕はまだできていない.

こんな表現をしてしまう程に,僕は自己受容というものが下手くそなのだ.

 

だがそれでも,僕は幸せになりたい.

自己受容は僕の幸福において,おそらく避けては通れない命題だ.

本の言葉を言葉を借りるなら,これも人生のタスクの一つなのだ.

 

自己受容を進めていくためにも,まずは自己受容ができないという自分から受け入れてみたい.

自己受容ができる自分になりたい.

劣等感が優越性を求めるエネルギーになるのなら,僕はまず,ここから始めてみたい.

 

僕はできない自分を認識できている.

あとは変わりたいと願うか,その一歩を踏み出す勇気があるかの問題だ.

 

これまでに目的論に対して懐疑的な態度をとっていた僕だが,ここに関しては間違いなく目的論を適用するべきだと感じる.

そちらの方に憧れを抱いたし,強い理想も感じた.

僕の思想と合致したものであると,そう思えた.

 

だから僕は,自己受容について勇気を持って取り組みたい.

今の僕は,自己受容できない.だからこそ自己受容できる自分になりたい.

 

「他者信頼」については,イマイチ実感が湧いていないというのが現状だ.

僕は他者を信頼して生きることができているのだろうか.

 

アドラー心理学における「他者」で見た場合,僕は他者信頼を達成することはできていないのだろう.

少なくとも共同体にいるモノ全てに対し,無条件の信頼を持つことはできていない.

おそらく,それは生涯かけてもできないのかもしれない.

 

公憤として,許しがたいモノは数多く存在する.

僕は論理を重ねて何かを嫌うということを,割と本能的に行うことができる.

だからアドラー心理学の細かい矛盾点や鼻につく点にセンシティブに気がつくし,そこに対して猜疑心を抱きもする.

だからアドラー心理学における「他者信頼」を達成することは,少なくとも今の僕にはできないことだ.

 

「自分が信頼されているのか」という不安が僕の中にあるのも,原因の一つだ.

そも信頼とはするものであり,されるべきものではない.

だからそこに対して恐怖を抱いているということは,僕が「人を信頼しないでおきたい」という目的を抱えていることの証明なのだ.

裏切られるかもしれないという恐れが,裏切られるために行動するという自分の今につながっているのである.

 

目的論的な考え方には,実際の行動変容を促すトピックが詰まっている.

それは僕にとって特効薬になり得る代物だ.

 

まずは人を信頼することから始めよう.

僕は両親や兄,親友に対して,信頼を持つことができているはずだ.

それをもっと広く,もっと深く押し進めてみたい.

信頼することで何が変わるのかを知ってみたい.

 

アドラー心理学が語る「信頼」とは異なる形だが,まずは好奇心からそれを始めてみよう.

僕は今そうしたいと,そう思えているのだ

 

「他者貢献」についてはどうだろうか.

僕はこれまでに,それを当たり前のように行ってきたようにも思う.

 

僕の場合は原因論的にそれを行ってきた.

なにせ僕は歴史の恩恵を享受しているのだから,最低限の感謝として何かに貢献するのは自分のあるべき姿だと,そう自己を定義しているのだ.

 

だから自然体として「他者貢献」という結果を達成していたように思う.

ただし,それはプロセスを無視したものでもあった.

 

僕は「そうすべきだからそうする」が,自然にできてしまっている.

東方オタクの友人曰く「かくあるべしだからかくあらんとする」という生き様が,僕には生来備わっている天性なのだ.

 

だから僕は「自分は共同体にとって有益である」「自分は誰かの役に立っている」という貢献感を得ないままに,貢献そのものを行い続けてきたのである.

 

僕のすれ違いや不幸の原因は,おそらくここにある.

人知れずできることは才能だし美徳だが,報われなければ悪癖だし悪徳にもなり得る.

 

そして何より「他者の課題」を奪ってもいたのだろう.

僕は誰かの人生のタスクを,あたかも自分の人生のタスクのように勘違いして生きてきたのかもしれない.

だから24の年月を経てもなお,確固たる自分の理想とする未来像を想像できないのかもしれない.

 

それでも,救われたモノもあると,僕はそう信じたい.

救われなかった過去の僕を許せるのは,僕だけなのだ.

 

僕自身,救われないタイプの寓話に強く惹かれる人間である.

幸福の王子」という寓話はその典型例だろう.

幸福であるが故に他者の痛みに気づき,施しを与え,そしてその役目を終えた.

真に優しい心を持ったツバメはゴミとして捨てられ,朽ちた王子の像もまた,溶かしきれない心臓だけがゴミ溜めに破棄された.

 

この寓話から何を思うのかは人の勝手だろう.

哀愁漂う話であるし,皮肉も多分に含まれている.

 

僕なりの解釈だと「真に尊いものとは誰からも理解されないものである」というのが,この寓話の本質なのだと思う.

神さまは最後にそれを天界へと召し上げたが,神に認められたからそれが尊いというわけではない.

それでも王子とツバメは,最後まで自分であり続けることができたのだと,僕はそう思う.

 

これも伝説級の名作であるが,「ゼルダの伝説 時のオカリナ」にしたってそうだ.

時の勇者はガノンを倒し,子供の時代へと帰っていく.

ハイラルとタルミナを渡り歩き,2つの世界を救った勇者だ.

 

時の勇者は,ある時代では伝記に残され,ある時代ではその存在すら誰にも認知されずにいた.

それでも確かに,勇者は2つの世界を救ったのである.

死後に報われることはなかったのだと「トワイライトプリンセス」では明かされる.

 

時のオカリナ」や「ムジュラの仮面」を周回すればするほどに,言葉にできない感情が湧き上がってくる.

報われないと知っていても,その未来を求めずにはいられなくなる.

時の勇者は何を思い,世界を救っていたのだろうか.

 

「他者貢献」という言葉で言い表すには,あまりにも救いがなさすぎる.

そうしたノスタルジィに振れるたびに,僕は自己投影をしては,果のない空想に耽ってきた.

 

ものすごい勢いで話が逸れたが,要は「他者貢献」というものの捉え方について,僕は相当に歪んでいるということが言いたかった.

少なくともアドラー心理学の視点から見たら,その歪みは確かなものとしてその目に映るはずである.

 

幸福であらんとする願いと,尊い存在であらんとする願いは,どちらも望んではいけないのだろうか.

本には「特別でなくてもいい」「普通であることを受け入れる」というセンテンスも含まれていた.

今の僕には幸福とは特別な感情で,だからこそ切望するものでもある.

願うほどに遠ざかるのが幸福ならば,身近なところにある幸福に目を向けて生きるべきなのだろうか.

 

目的論において可能性を残すという行為は,「憧れていたい」という目的により「だから今のままでいたい」という現状維持バイアスにつながるのだと,そう指摘していた.

これは鋭い指摘だと思う.

憧れは憧れていることに意味があって,怠惰で在りたいという目的を叶えるための優れた手段なのだ.

 

一方で変化の激しい時代になったからこそ,可能性を残しつつ生きる方法も世の中に芽生えつつあるというのも事実である.

少なくとも「Life Shift」という本にはそのようなことが書かれていたし,今の自分と照らし合わせてみても,重なる部分は多い.

結局は,どちらを自分の答えとするかなのだろう.

 

僕は「貢献」をできているが,「貢献感を得る」ことはできていない.

その原因として,「理解されたくない」という気持ちがあるのは,疑いようのない事実である.

 

尊くありたいと願っているが,尊きものは理解されない性質を持っている(と認識している)ため,「本当の自分を理解されたくない」という目的が発生しているのだ.

目的論的に解析すると,おそらくはそういうことなのだ.

 

そして自分が尊きものだという自意識過剰に陥っているから,「本当の自分を理解してはいけない」という目的もまた発生しているのである.

なぜならば本当の自分を理解してしまうと,自分は尊きものでないのだと知ってしまうからだ.

僕が持つ既存の幸福の論理において,僕はそのようにして行動していたのだ.

 

……さて,「他者貢献」というキーワードだけで,相当な感想を抱くことになってしまった.

それほどまでに,僕にとって「貢献」と「貢献感」というキーワードは重要なものであるのだ.

 

おそらくはそれを知るまでには,相当な時間を要することだろう.

生涯かけてもなお,僕はそこに至ることはないのかもしれない.

 

アドラー心理学は人間理解の心理,または到達点である」とう言説があるのも合点がいく.

これは確かに人間の手には余る,過ぎた理想論なのかもしれない.

おそらくは僕が生きているうちにこの思想が「共同体」すべてに行き渡ることはないだろう.

 

だからこそ,今触れる価値もある思想だとも感じた.

理想の一端に触れ,そこに近づくことはできる.

僕にもできることは,必ずある.

 

そこそこ理解したと思えるまでに生まれてきてから経過した時間の約半分が必要になるなら,僕は36歳あたりでそれを取り入れることができるようになるのだろう.

 

今の僕はまだ,アドラー心理学の思想全てに迎合することはできない.

僕が僕である以上,おそらく迎合することはありえない.

アドラー心理学が「自己への執着」を否定している以上,僕はそのすべてを受け入れることができないのだ.

 

しかし理解することはできた.

そして触れることもできた.

あとは受け入れられることから,少しずつ受け入れていくだけだ.

 

12年の年月をかけてそれを実践してみるのも,悪くない.

僕は本の中の青年のように即座に魅了されることはなかったが,それでもアドラー心理学を面白いと思ったし,実践したい感じた.

思想が違っていても,きっとそこには幸福があるのだと,そう信じることができた.

 

 

あとは試すだけだ.

試行錯誤の中で,どのようにして「共同体」と関わっていくのか,せいぜいそれを楽しんでやろうと思ったのである.

 

問いかけられて学ぶ

読み終えてみると,本から問いかけられたことや,伝えられたメッセージは多かった.

 

「人間,そんなに悪い人ばかりじゃないよ」

「君が居てくれて幸せになれた人だってたくさんいるよ」

「人のためになりたいという気持ちを,偽善なんて言葉で閉じ込めなくていいんだよ」

「人間関係でそんなに悩まなくてもいいんだよ」

「僕は君の味方だよ」

 

直接書かれていたわけではないが,青年と哲人の対話の中で,僕に対してそうした言葉をかけられているように感じた.

心理学とか,思想とか,そういうものとは関係のないところで,僕はたくさんの励ましを感じたのである.

 

無条件の信頼など,やはり僕にはできないことだと思う.

猜疑心は確かに僕の中に存在しているし,「無条件に他者を信頼します」と言ったところで,それは僕の「人生の嘘」になるだろう.

「信頼できる人間を装いたい」からそう振る舞っているに過ぎず,それは「他者への関心」からくる信頼とはかけ離れた何かだ.

 

けれども,それを始めることはできる.

親しい人を,心の底から信頼してみることはできる.

まずはそこから始めてみたい.

 

実際問題,家族は信頼できるが,全面的な信頼ができるかと言われたらNoだ.

そしてそれは,おそらく家族に対して「見返り」を求めている自分がいるからなのだ.

まずはそこを否定して,無条件に家族を信じてみよう.

今この文章を書いているだけでも手が震えるほどに「勇気」の要る行為だが,実験すると,そしてそれを楽しむと決めたのだ.

 

僕はアドラー心理学に染まることはできない.

「勇気」の出どころは,おそらく違うところにあるのかもしれない.

それでもそれを実践している人がいるんだという事実は,僕に「勇気」をくれた.

そういう意味では,この本は僕に「勇気づけ」をしてくれたのだ.

 

大丈夫,この心理学は僕のすべてではないが,少なくとも敵ではない.

だったらまずは「仲間」として付き合ってみるのも,きっと悪くはない.

 

「殴られるまでは殴り返すな」

僕はそういうタイプの性善説で,これまでを生きてきた.

だからまぁ,アドラー心理学に裏切られるまでは,僕はアドラー心理学のことを信頼し続けてみようと思う.

 

そしてそれがいつか「他者信頼」の達成につながるよう,意識をしてみたい.

36歳くらいまではかかるらしいが,12年もあれば僕ならきっと,それができるはずだ!

 

それでも僕は一元二分論に染まれない

そんなこんなで,アドラー心理学というものはなかなかに面白い思想だなと思った.

しかし僕はその思想の全てに迎合することはできなかった.

 

そう感じるに至るまでには,多くの理由があったように思う.

一元二分論的に行われるある種の「戒律」のような選別と,そこから滲み出る選民思想がもっとも大きな原因だろう.

 

「本当の愛」とは「劣等感を抱かず,優越性を誇示せず,自然であれる状態」だと語っていたのは,僕にとってすこぶる気味が悪かった.

「愛であるもの」と「愛でないもの」の境界はどこかに引かれているのだと思うが,それを「正しいもの」として「人生のタスク」という言葉の中に定義するのは,押し付けがましいなと思ってしまったのである.

劣等感を抱いた関係だって美しいし,それを埋め合わせるために生きて,愛し合って,それの何がいけないのだろうか.

2章の感想でも同じことを書いたが,結局このもやもやが晴れることはなかった.

なので僕がアドラー心理学に忌避感を抱く理由の一つは,間違いなくこれである.

 

3章の「坂道を転がり落ちるか,逆らって登るか」という命題にしたってそうだ.

どうもこの本は「流されて生きること」や「縛られて生きる」ことをさも悪徳のように捉えているが,僕はそれが鼻につくのである.

「流されないことこそ自由」という定義をしていたが,僕は転がり落ちる自由があってもいいと思うのだ.

すり減り,摩耗し,丸みを帯びていった先にもまた,そこにしかない輝きが見つかると,僕はそう心の底から信じている.

それを「本当の自由は坂道を逆らって生きること」と定義されても,なんというか下を見れない奴の言葉なんだなって思ってしまう.

このもやもやについても結局は,本を読み切っても解消されなかった.

 

つまるところ,アドラー心理学とは強者の思想なのだ.

前だけを向いて歩けるのなら,どれだけ楽で簡単だろうか.

 

目的論ではうつむいて歩くことを「その場に留まっていたいから」という理論で定義し,だから「歩かない」という目的がそこにあると考える.

でも僕は脆弱な人間で,時に立ち止まり,時に後ろを振り返り,そして足元の状態を確認しなければ前に進めない,そうした弱さを持っている.

うつむくことを責められてしまったら,どうして前に進めようか.

 

僕はそうした弱さを拭い去りたいと思っている.

だがそれと同時に,その弱さの中にも美しさがあると,そうも思う.

弱くなければ見れない限定のイベントや幸福だって,この世の中には溢れている.

そしてそれを助け合うために,人は誰かの人生のタスクを肩代わりすることだってあるだろう.

 

僕はそうした弱みを廃そうという考え方には迎合できない.

それは「勇気」だけで解決できる問題ではないし,逆に解決されないことで幸福になれるものだってたくさんあるはずなのだ.

だから「今という時に焦点を当てて生き続けよ」というアドラー心理学の思想が,強者の思想だと思うのだ.

 

おそらくはまだ僕が知らないアドラー心理学のエッセンスはたくさん残されているのだろう.

だが2021年6月6日の僕はまだ,それを理解することができていない.

だから今はこういう批判的な感想も,ここに残しておくことにする.

 

しかし今僕がした批判には,面白い知見も混じっているなとも感じた.

なぜならば,僕が薄気味悪さを感じた価値基準があるということは,僕の持つ思想にもまた薄気味悪さが存在していることを意味するからだ.

 

僕は自分でそう認めるように,価値基準の一定部分において,他人と大きく異なっているものがある.

僕はそれを大事にしていて,それを当たり前の価値だと受け止めているものが,誰かにとっては受け入れがたい混沌のように見えているのだ.

 

それでも救いもあった.

僕がアドラー心理学のすべてを受け入れられなかった一方で,それでも良い部分や優れた部分,受け入れていきたい部分を知り,理解して,認めることもできたのである.

 

だからきっと,誰かにとって受け入れがたい僕の混沌も,「それでもそういう思想もあるんだ」と理解してくれる人はいる.

受け入れられなくても,受け止めてくれる人はいるのである.

 

4章の感想として得た「斜めの関係」というのも,アドラー心理学に出会えたからこそ自分の中に発見できた価値観だ.

すべてを受け入れなくたって,僕は変わることができた.

自分を受け入れることを,少しだけでも始めることができた.

 

それが「勇気」なのだと,僕は思いたい.

アドラー心理学が僕の全てではないが,それは僕の一部になった.

僕はそれを誇りにして生きたいのだ.

 

誰に言われるまでもなく,自分からやる

誰かが始めなければならない.

他の人が協力的でないとしても,それはあなたには関係ない.

わたしの助言はこうだ.

あなたが始めるべきだ.

他の人が協力的であるかどうかなど考えることもなく.

 

これはあまりにも痛烈な正論の右ストレートだ.

アドラー心理学の思想を今すぐに体現しろ」という言葉ではないと,僕はそう思う.

誰もそれをしていなくても,それが自分を妨げる理由にはならないという,ただただそれだけの言葉なのだ.

 

何事も,まずは始めなければならない.

最初の一歩を踏み出す「勇気」を得るための方法論として,アドラー心理学というものは存在しているのだろう.

 

ならば僕はそれを始めたい.

いや,始めるのだ.

 

僕は僕の思想で生きるのだと,そう宣言した.

歴史となっていくあらゆるものに感謝をし,その一部になりたいと,誰でもない僕がそう願ったのだ.

誰から教えられたものでも,何かに押し付けれらた願いでもない.

僕はそのようにして生きたいと,そう決めた.

 

感想を書いていて,思い出した物がある.

If one was meant for pain.
For all to stay the same.
For all to, here, remain.
I'll take nothing in vain.

It's you who made me see.
The world has made me see.
There is more that I can be.
There is something more in me.
There is something that I must be.

 「ファンタシースターポータブル 2 インフィニティ」の主題歌である「Ignite Infinity」の出だしの歌詞である.

それが痛みから発したものであっても,
変わることのないすべてのモノのために,
そしてこの場にあるすべてのモノのために,
一体何を無駄にすることができようか.

君が,この世界が教えてくれたんだ.
私にはまだ何かできることがあって,
私の中にはまだ何かがあって,
そして私には,なさねばならないことがあるのだと.

当時はあまり実感が持てなかったのだが,僕の思想と重なる部分が多分に含まれているなと,今更ながら思い出したわけである.

 

僕がこうした思想に至ったのは,おそらく中学1年くらいのときだった.

この曲を聞いたのは,中2の夏くらいだったと思う.

体験版をプレイして,そこで聞いた.

歌詞の意味や内容なんて,当時は一切気にしてなどいなかった.

「インフィニッティ~」のフレーズだけ聞いて爆笑できるくらいの愚かさを持ち合わせていた,そういう時期であった.

 

この歌詞は僕の知らないところで作られたのだから,きっと作詞家は僕とは独立したプロセスでこうした思想に至ったのかもしれない.

今になってようやくそれに気づいたくらいには,思想というものはびっくりするほど表に出てこないし,気が付かないものだと思う.

 

僕には御しがたいほどに「自己への執着」がある.

そこを変えるのは無理だ.

目的論的に言うならば「変えたくない」と思っているから現状維持に囚われている,そういう思考のパターンだ.

 

でも執着する自己をより良いものにすることはできる.

より他者を愛せる,言葉を借りるなら「貢献」できる自分にしていくことはできる.

 

僕は「自己への執着」も「他者への関心」も,どちらも捨てられない.

どちらも抱えて生きていきたい.

 

僕はエゴイスティックで,どこまでも強欲な人間だ.

自分の幸福にまとわりつく傲慢を理解していても,それを止めることができない.

あまつさえ別種の幸福が視界に映った途端に,それすらも同時に手に入れたいと吠え始める始末である.

 

僕はこんな自分を知りたくはなかった.

いや,今までの自分はそんな自分を認めたいとは思わなかっただろう.

今の僕はそんな自分に気がつくことができて,なんというか高揚している.

 

アドラー心理学を都合のいいツールとして利用しようと思えば,いくらでも都合良く解釈できるだろう.

しかしそれは火遊びと何ら変わらない,ただの度胸試しでしかない.

 

その危うさを理解し,受け入れることが大切だ.

とりわけ「自己受容」は都合のいいツールとしてはいけないものの代表例だ.

優越コンプレックスに基づいて偽った自己を容認してしまったら,僕は真実として「人生の嘘」を付き続けることになる.

かといって何もかもを「肯定的に諦める」のも間違いだ.

 

つらいと感じてきた痛みを伴う過去もまた,受け入れていかなければならない.

僕は何も無駄にしたくないし,すべての歴史に意味をもたせたい.

いや,意味を持っていてほしいのだ.

だから自分の歴史とも,真摯に向き合うべきだ.

僕はその勇気を,この本からもらうことができたのだ.

 

「貢献したい」という気持ちは,確かに僕の中にある.

そして「貢献」のやり方は,僕はもう知っている.

足りなかった「貢献感」と「信頼」をないがしろにしなければ,僕は「他者貢献」ができるのだ.

 

あとはやるだけだ. 

 

茶番

そんなこんなで,感想を書き終えた.

ここからは感想の感想を書く場所となる.

つまり茶番である.

 

さて,僕の批判的な思考能力は割と本物なのかもしれない.

本で語られているセンテンスの矛盾や不快感の原因を,自分の重要にしている価値観と照らし合わせて理解することができた.

そうした部分を区別できた結果として,アドラー心理学のエッセンスを抽出することもできたのではないかと,個人的に思っている.

 

まぁ人に見せるための文章でもなければ校正にかける文章でもないので,とにかく読むのには適していない状態にあるのだが.

それを含めてのこのブログである.

 

後篇は大体1万8000字ほどの感想文となった.

前篇と合わせるとおよそ2万8000字である.

重複する箇所もあるが,なかなかどうして書くことが多い本であった.

それだけ思うところや発見が多かったのだろう.

そう信じたい.

 

後篇はノートPCで書いていたのだが,いかんせん10年モノのPCなので熱がすごい.

お陰で左手が低温やけどをしそうになっていた.

いや,もう若干しかけているのだ.

あと数百文字,締めの文章を書きたくなくなるほどに,左手がヒリヒリしているのだ.

 

これは就活に伴う課題図書でもあるので,これからこの感想の塊を800字にまで圧縮しなければならない.

どこを抜き出して書いたものか,もうすでに困っている.

 

まぁ何を書いても僕の言葉だ.

僕なりに相手を想って,僕の素直な言葉で感想を伝えたいと思う.

自分の言葉を偽ったところでなんの意味もないし,そもそも言葉を飾れるほど僕は器用ではない.

感想を書く前から気負いしていても仕方あるまい.

 

さて,今日はこんな感想を書いていた一日だった.

明日の予定は,今の所ない.

なので「幸せになる勇気」を読もうかと思う.

 

今日読む予定だった「幸せになる勇気」は,まだ一字も読めていないのだ.

なにせどこぞのアホが一日かけて18000字の感想文を書いていたものだから,仕方がないというものである.

 

大体一時間あたり3000文字のアウトプットである.

今後の指標にしよう.

 

ちなみに本を読みながらまとめていたメモは1万字くらいだったようである.

思考を記録するのは,やはり僕にとっては重要なことだということが,今回感想を書いていてよく分かる.

多分読みっぱなしだったら中身は殆どなくなっていたかもしれない思うと,記録の偉大さが身にしみる.

 

また話が逸れた.

僕は話題を暴走させるのがつくづく得意らしい.

 

明日は「幸せになる勇気」を読む.

いや正確にはこの記事をアップロードしてこれから読むのだが.

まぁ感想は明日の記事にするつもりなので明日の予定と言っても差し支えはあるまい.

 

あとは「共同体感覚」を得るために「自己容認」「他者信頼」「他者貢献」をしていくのみだ.

実験的に取り入れながら,本で得た学びを自分のものにしていきたい.

 

よし.

今日もよく頑張ったぞ俺!!もう気が狂うほど文字書いてんな!!お前はすごいやつだよ!!いつもブログありがとうな!!睡眠時間を削らない程度にがんばれよ!!いけるぞいけるぞ!!!うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお