イドのなんらか

TRPGしたりキャンプしたりするITエンジニアの人間が書く雑記

「嫌われる勇気」という本を読んだ (前篇)

本を読んだ

今日は一日中,本を読んでいた.

嫌われる勇気という本である.

f:id:id-no-nannraka:20210605202647j:plain

嫌われる勇気

昨日就活で面接して紹介されたので注文し,今日の昼に届いた.

なのでそれを読んでいたというわけである.

 

文量としてはそれほど多くはなかった.

普通に読めば3時間程度で読了可能だろうか.

僕は細かくメモしたり思うところを書き留めたりしていたので,6時間ほどかかった.

 

挑戦的なタイトルとは裏腹に,内容はアドラー心理学について語る普通の本であった.

フロイト原因論をベースとした悩める青年と,アドラーの目的論を語る哲人が,対話を通じてアドラー心理学の骨子について掘り進めていく内容である.

 

読んだ感想としては,普通におもしろい本だと思った.

一部に強い言葉が見られたものの,内容としてはほとんど理解できた.

今の自分に対して思うところも多かったし,早速試してみたい思考方法も見つかった.

こうした内容を前提に昨日の面談があったのだなと思うと,一種の答え合わせのような感覚にもなった.

 

本の後半で語られていた一節に,次の文がある.

「今この瞬間から幸福になることができます.しかし,そうでない人は,いつまでも幸福になることはできません」

「幸せになる勇気」を持てば,今から幸せになることができると.

その方法論も,ここで示したと.本ではそのように語られていた.

 

本の中の青年は最終的にアドラー心理学に興味を持ち,「幸せになる勇気」を持つことになった.

僕自身はというものの,本から得るものは多かったが,アドラー心理学について迎合することはできなかった.

本の言葉を借りるなら,僕は「幸せになる勇気」を持つことができていないらしい.

 

結論として,僕はアドラー心理学の一部分を,僕の生活に取り入れて見ようという形に収まった.

全てに迎合することはできないが,今の僕にとって大切な部分を,糧として吸収したつもりだ.

 

そんなことを言ってもなんぞやなると思うので,そういう考えに至ったまでの敬意を,本の内容をまとめつつ語っていこう.

5章構成だったので,各章のまとめを書きつつ,読みながら僕が思ったことを感想として記す.

 

なので書かれる感想は,章ごとにそれぞれ時系列順になる.

1章の感想には,2章以降の知識や前提は存在しないし,2章もまた同様である.

そのように綴り,最後に本を読んでの感想を記そう.

 

1章 アドラー心理学の基本

概要

アドラー心理学は20世紀初頭に登場した,比較的新しい心理学である.

フロイトユングが説いた原因論に起因する心理学とは異なり,目的論をベースにした思想が,アドラー心理学だ.

その中身には,多分に哲学的思考を孕んでいる.

 

アドラー心理学の基本的な考え方として「目的論」があり,度々フロイトの「原因論」と比較して語られている.

過去の起こった事象が原因で現在の行動が決定されるというのが「原因論」である.

原因論によると,すべての選択は過去の経験やこれまでに身を置いた環境により定まるとされる.

 

それに対し,今成したいことのために現在の行動が決定されるというのが「目的論」の考え方だ.

すべての選択は,結局のところ「私がこうしたいからこうする」という,ある目的に対して行われるものである.

それが目的論的な捉え方である.

 

アドラー心理学では,主観が重視される.

選択の理由を自分の外に置くことをやめ,行動を変容するために目的を利用するという考え方である.

 

人間は,誰しもが変わりたがっている.

しかし変われない人間も大勢いて,それは「本当は変わりたくないから」というのが目的論の捉え方だ.

過去の経験や未来の予想などは関係なしに,人の行動はすべてそのときに持っていた目的で説明できる.

 

例えば引きこもりがいたとして,原因論では「トラウマに起因して引きこもった」と捉えるが,目的論では「引きこもりたいから引きこもった」と捉える.

いじめや挫折,社会不安などさまざまな過去や制限があった上で引きこもったとしても,引きこもりの状態にあるということは「引きこもること」が目的なのだ.

 

酷な話に聞こえるが実際にそうで,不幸である人は「不幸になる」ことが目的だから,その状態にあるのだという.

視点を少し変えると,「不幸であることが好都合」だから「不幸でいる」ことを目的として行動するのだ.

 

アドラー心理学においては,今のライフスタイルを辞める決心が必要だと説く.

人は何かと比較して自分に可能性を見出す一方で,とにかく変わりたがらない.

「もしも〇〇だったら」という可能性を残しておくことで,変わらない自分に甘んじるのだ.

 

アドラー心理学ではそうした状態からの変化を成すためには「幸せになる勇気」が必要になるのだという.

 

 

感想

目的論の捉え方は,強者の理論だと思った.

 

原因論を100%無視することはできない.

人間は物理的・科学的な現象を元に活動している.

脳のシナプス結合は過去に受けた刺激を元に構築されるし,それに従って人間はものを考えて行動する.

人間は生物的に,そうプログラムされている.

 

だから目的論は,おそらく理想論なのだ.

そうした側面で人の行動を捉えることは,面白い試みだと思うし,救われる物事もあるだろう.

実際,僕の過去についてもそうしたアプローチで紐解けそうなことは,現時点で相当にある.

だけども,それで全部を説明してうまくいくとは,僕は思えない.

 

原因論が現実主義な考え方だとすれば,目的論は現場主義・現状主義の思想なのだと思う.

現実は不確実性を孕んでおり,

だからすべてを主観にして生きるというのは酷な話だと,僕はそう思った.

 

あとは単純にリソースの話もついてまわるよなとも思った.

無限のリソースがあれば,誰だって目的に従って行動し,それを成すだろう.

しかし「勇気」というリソースは,有限だ.

「Life Shift」では活力資産や変身資産という言葉を使っていたが,「勇気」とはまさにそれである.

人間の脳は各種伝達物質で駆動する以上,「勇気」を司る何かの物質もまた,消費されていく性質を持つ.

 

またアドラー心理学では「変わること」を良いこととして捉え,その難しさを説いているように見える.

しかし僕の哲学では,むしろ「変わらないこと」の方が難しい.

 

停滞とは幻想で,万物は流転する.

「変わりたくても変われない」と思っていても,人は少しずつ変化をしていく.

永遠の刹那とは幻想であり,だからこそそれを求めることが「愚か」だとされるのだ.

 

だから僕なりの解釈では,アドラー心理学における「変化」とは,目的を伴った変化なのだなと思うことにする.

「変化しない」ということは,何も変わらないことを意味するのではなく,「変化と認知できない程度の変化しかしていない」を意味するのだなと,そう捉えることにする.

その方が,僕にとっては分かりがいいだろう.

 

まとめると「アドラー心理学は強者の思想」であるというのが,僕の率直な感想だ.

なるほど勇気の強い人間なら,きっとこの思想に従って生きることができるだろう.

そうでないから,もしくは勇気が不足するから,人は変われないのだ.

勇気を出せるなら,誰だってそうしている.

 

少なくとも,僕は変化を望んでいるし,もがいてもいる.

そこに勇気があるのかないのかはわからないが,僕の内にある何かを駆動させて変形しているのは,少なくとも僕は疑っていない.

 

そんなことを思った1章であった.

 

2章 アドラー心理学の対人関係

概要

アドラー心理学では,「すべての悩みは対人関係によるものである」という.

モノ・コト・ヒトで言うと,人間はヒトによって悩みを生み出す.

 

人は悩んでいたいから悩むし,不幸でいたいから不幸でいる.

不安の中に居るので不安を解消するための術を望むが,不安であることが目的なので,それは一生解消されない.

 

自分を卑下する言動をしている人は,自分の欠点を挙げ連ねて人を遠ざけるのが目的である.

悩みの原因となる人間関係を否定し,遠ざけることで,痛みから逃げる動きなのだ.

傷つくことが怖くて,だから逃避を目的にネガティブ思考に耽る.

 

劣等感と劣等コンプレックスには,大きな違いがある.

劣等感はエネルギーで,優越性を得るために欠かせないプロセスだ.

劣等感を抱えて生きることは,不完全な自分を受け入れて生きることなのだから,それ自体に悪性はない.

一方で劣等コンプレックスは倒錯的状態にあり,優越コンプレックスにつながる危険な状態である.

 

例えば何処かに出かけたいが,体力のない人間がいたとする.

劣等感を抱いたのなら,体力を付けるという目的で運動をするか,出かけるという目的で車を使ったりするだろう.

しかし劣等コンプレックスにある人間は,「体力のない人間だから外には出れない」という思考のもと,「外に出ない」という目的で行動を始める.

 

また周囲の人間と比較することもまた,不健全な行動である.

理想の自分と今の自分を比較することが,劣等感と優越性を生むための健全なプロセスだ.

 

「私」と「他人」は同じではないが,対等である.

上下の区別はなく,どれだけレッテルを張ったところで「人間」なのだ.

それを知り,競争から自由になることも,アドラー心理学の骨子である.

 

他者の幸福を祝福できて,初めて自分の幸福を認めることができるようになる.

相手の幸福とは自分の不幸の上に成り立っていると解釈してしまうと,いつまで経っても感覚面で競争をすることになってしまう.

幸福とはスカラーではなくベクトルで,比較ができるものではない.

 

また過去のあらゆる物事は,自分の主観において意味づけされる.

人は「怒り」という感情を持つとされるが,それはあくまでコミュニケーションツールである.

私憤と公憤の違いを知り,論理に基づく憤りと,衝動的な怒りを区別することが大切である.

 

アドラー心理学には,行動面と精神面について明確かつ重要な指針がある.

行動面

  • 自立すること
  • 社会と調和して生きること

精神面

  • 自分には能力があるという意識
  • 周囲の人はみんな自分の仲間であるという意識

 

また人生には「仕事」「交友」「愛」3つのタスクがあり,どれもが人間関係のタスクである.

人生のタスクは,すべて人間関係において定義されるというのが,アドラー心理学の考え方だ.

そして悩みとはそのタスクに際して発生する.

そのタスクから逃げることを,「人生の嘘」と呼ぶ.

 

「仕事」のタスクは,直面性の高いタスクだ.

名前の通り,社会に生きる上でなさねばならないものである.

成果という目標を共有しやすいのだ特徴だ.

ニートや引きこもりは,これから逃げるために「人生の嘘」を頼っている人間のことをいう.

 

「交友」のタスクは,親友や信頼といった言葉で表現できるタスクである.

成果ではない場所にある幸福を認め合える人間関係が,このタスクに当たる.

 

「愛」のタスクはより深い人間関係のタスクだ.

相手の幸福を全面的に祝福できなければならない.

「この人と居ると自由に振る舞える」という,劣等感を抱かず,優越性を誇示せず,自然であれる状態こそが本当の愛である.

 

アドラー心理学は「使用の心理学」である.

「何が与えられているか」が原因論だとすれば,「どう使うか」が目的論の考え方だ.

それは「勇気の心理学」でもある.

 

人間はトラウマに囚われるほど脆弱な存在じゃない.

それを振りほどく力が人間にはある.

 

感想

目的論が僕に合わない理由が,ちょっとわかってきた気がする.

思想とはつまるところ,理想を成就するためのツールである.

だからこそアドラー心理学では「幸福になる」という理想を達成するため,目的論などのツールを用いてさまざまな方法論をとっている.

 

それは理想に対して行われるもので,幻想を成就するものではない.

僕は幻想の中に生きることを理想としている,倒錯的な人間である.

物理的に不可能な空想を求めて,そこに自己を投影し,かくあらんと望む,そういう人間である.

 

だから目的論で説明できない部分が次々と脳裏をよぎり,忌避感を抱くのだろう.

それを踏まえた上で,過去の捉え方については,多分に取り入れたい思考が含まれていた.

 

特に過去の目的を決めるのは自分だけであるという思考は,僕にとって非常に衝撃的なものであった.

そこから何を得たのか,トラウマにするのか,目をそむけるのか,意味があったと思うのかは,すべて自分次第なのだ.

だったら幸福になれる捉え方をした方が,今の自分が前に進むための勇気をくれる.

その考え方は,僕に必要な具体的な行動指標だ.

 

また人生のタスクについて「仕事」「交友」「愛」の3つに分けていたが,僕はこれを分ける必要はないと思う.

本質的な事は一緒で,直面性や関係性の度合いの差があるだけなのだ.

むしろ僕にとっては,1つのタスクとして捉えたほうがわかりやすいかもしれない.

「仕事」と「愛」についてあまり経験がないのでそうなのかもしれないが,現時点ではそう

 

本当の愛を定義するのも,いかがなものかと思う.

まぁ僕は恋愛をしたことがないのでわからないが,劣等感を抱いた関係だって美しいのではないか.

互いの劣等感と優越性を埋め合わせるように生きて,愛して,そういう形だって,僕は本当の愛だと思う.

僕にとって愛とは幻想の内側にあるものだから,こういうことを思うのだろうけども.

 

「人生の嘘」というのは,いささか言葉が強すぎると思う.

何かを目的に行動したけどリソースが尽きて立ち止まり,結果として嘘をついたことになって,それで本当に苦悩することだってある.

全力を出して,それでも届かなかったことだってある.

それを「そうなりたいからそうなった」なんて言葉で嘘呼ばわりするのは……なんというか,僕はそれに対して憤りを感じる.

勇気がないからそうなれないなんて一蹴しても,現実は質量を伴う以上,どこにでも立ちふさがって僕に嘘を吐かせる.

 

だから僕は「人生の嘘」という言葉に対して,許しがたい感情を抱くのだ.

いや,僕の振る舞いを「人生の嘘」と捉えるのかどうかも,僕の勇気しだいだということなのかもしれない.

それはこの先を読み進めればわかるだろうか.

 

「使用の心理学」という言葉は,なかなかに面白いと思う.

今あるものをどう使うかは,今を生きる上で突き詰めるべき命題だ.

 

一方で「所有の心理学」,つまり原因論をないがしろにするのは,いかがなものかとも思う.

今何を持っているのか,それで何ができるのかを整理することは,「どう使うか」の前に必要な思考だ.

そうでなければ届かない理想に……幻想に対して手を伸ばしかねない.

それを理解しないのは不幸とすれ違いの原因になるのはないかと思う.

(ここで原因という言葉を使う程度には,僕はまだ目的論に染まれていない)

 

3章 どう行動するか

概要

「神が居るから善行を積む」なら「神が居ないなら善行も要らない」となってしまう.

神というものの非実在性が色濃くなっていく時代で,アドラー心理学は,これから脱却する思考でもある.

 

承認欲求は真なる幸福ではない.

期待に答えるだけが,人を幸せにする手段ではない.

 

アドラー心理学では「それは誰の課題か」という基準において,さまざまな課題を分離する.

他人の課題には踏み込まず,自分の課題には踏み込ませないのが基本となる思考だ.

課題に対して土足で踏み入ると対立するため,違う方法で関わる方法が必要となる.

 

例えばカウンセラーは,変化の手助けをするが,患者を変化させることはない.

その努力は行うが,変化するのは自分自身であって,それを決めるのも自分自身.

だからその課題は患者のものであり,カウンセラーの課題ではない.

 

子供の教育において,何処まで介入するべきか.

アドラー心理学では,介入をしない.

その代わりに,援助をする.

 

例えば,靴紐が結べない子供が居るとする.

課題を解決するだけなら,親が代わりに結べば良い.

しかしいつか,靴紐をむすべない子供が出来上がるだろう.

この課題は子供の課題であり,親の課題ではない.

 

「困難に直面することを教えられなかった子供は,すべての困難を避けるようになるだろう」

これはアドラーの言葉であり,課題を奪う行為は良しとされない.

靴紐の例では,親は子供が靴紐を結ぶための援助をするべきだったのだ.

 

人間には,自分の道を誰かに決めて欲しいという欲求がある.

自分の道を行くのは難しく,他者からの期待に沿って生きることは,方法論として間違っているものではない.

しかしそれを続けていても,いずれはどこかで壁に直面する.

 

神が律する時代ではないから,他者に律されたいという気持ちは,それは酷く人間的な欲求である.

しかしそれは上下関係に隷属する行為で,不自由になることを意味する.

だから課題を分離し,自分の課題に,人生のタスクに向き合うことが必要である.

 

「嫌われたくない」という動機で行動するとどうなるか?

すべての人間に嫌われないために.嘘を吐くことになる.

そして矛盾が発覚し,やがて信用を失い,破滅する.

全員にいい顔をするという目的は,破綻したものである.

 

自分の課題と向き合うことを辞めると,人は誰かの人生をなぞることになる.

承認欲求に従って生きることは,人生のタスクを放棄することにほかならない.

 

「傾向性」というカントの言葉がある.

それは人間の本能的な欲望や衝動的な欲望で,それに従って生きることは,本当の自由を意味しない.

坂に転がって生きることは,自由を意味しない.

それは欲望や衝動の奴隷でしかないからだ.

坂にあらがって上に進むことこそ,そうした姿勢や態度こそ,本当の自由である.

 

承認欲求に従って生きるのは,石に例えると,坂道を転がる生き方.

石はすり減り,摩耗し,丸みを帯びていく.

そうしてできた石が「本当の自分」と言えるのか.

そんなはずはないだろう.

 

アドラー心理学では,すべての悩みは対人関係から生まれると説く.

故に対人関係からの自由が得られれば,すべての悩みから開放される.

嫌われることを認めて,初めて自由が得られる.

 

課題を分離し,人生のタスクと向き合い,他者からの評価を気にしなくなることで,自由になれる.

その過程で誰かに嫌われることだってあるが,嫌われることを恐れてはいけない.

嫌われる勇気を持つことが,人生のタスクと向き合う上で必要になる.

 

感想

さまざまな問いかけがある章だった.

 

僕は,環境を良くすると自分が良くなることを知っている.

僕じゃない誰かが幸せになることは,どこかで僕の幸福に繋がっている.

誰かの期待を満たすためにそうしているのではない.

誰かが救われるのだろうという空想が,僕を幸福にするのだ.

 

「勉強しない子供に対してどうするか」という問いがあった.

僕なら,「分野は似てるけどその子とは違うこと」を隣で勉強する.

学びには興奮が詰まっているから,必ず興味を持ってくれるはず.

そして教えを請われたら,それに応じる.

課題の分離はしきれてなさそうだけど,これが僕のベストアンサーだ.

 

期待通りに動かない相手を愛することの重要さを,アドラー心理学では説いていた.

見返りに縛られるべきではなく,人生のタスクにこそ注目すべきと.

 

僕は「人生の嘘」を吐くことは,別に悪いことではないのかなと思う.

靴紐の命題があって,それと向き合うのは子供だった.

でも親は介入して最終的に靴紐を結べない子供になっても,それはそれで愛されるべき個性だと思う.

いわゆるお嬢様キャラの王道だし,ギャップ萌えだって正義だ.

それを恥と捉えるからこそ得られる幸福だって,世界にはあっていいと思う.

 

「困難に直面することを教えられなかった子供は,すべての困難を避けるようになるだろう」

僕は,それはそれで良いんじゃないかと思う.

そしたらそしたで,きっと彼らは避けることのできない別の困難にぶつかる.

そこで彼らなりに,その困難の乗り越え方を考え,知れば良い.

そこに対して先に困難に直面しとけと口出しするほうが,よほどひどい押し付けだと僕は思う.

困難を避け続けた先にしかないような困難だって,きっとこの世界にはある.

それを乗り越える楽しみや幸福は,そこにしかないものだ.

 

また本書ではしばしば「自由である」ことが良いことで,何かに縛られる「不自由な生き方」が不幸なことのように描かれている.

僕はそれに対し,猜疑心を感じた.

 

不自由であることは,そんなに悪いことなのか.

承認欲求に従って生きるという自由だって,この世には許されている.

僕がそうなりたいかとは別にして,それが幸福な人間だって世の中にはいる.

 

「嫌われる勇気」とは,「自由であらんとする勇気」ということなのだろう.

そしてそれは「幸せになる勇気」であると.

 

なるほど,自由とは絶対的かつ普遍的に,人間を幸福にするという前提にアドラー心理学は成り立っているのだ.

だから僕の思想と相容れない部分があるなと感じていたわけだ.

 

幸福は,自由の外にだって転がっている.

そこで何を見つけるか,どう遊ぶか,何を得るか,何を感じるか,何を望むか….

どれも幸福になるための方法の一つで,「どう使うか」もまた,その一つでしかない.

幸福を規定して生きるほど,僕にとって不都合なことはない.

だからアドラー心理学における幸福観が,僕のそれとズレていると感じていたのだろう.

 

坂道の例を引っ張れば,坂を転がり落ちるのも,坂を登るのも,どっちも自由でいいどっちもいいと思う.

だいたい坂を頑張って登るのだって隷属だし,怠惰に見えるからといって奴隷扱いするのはちょっと言葉が強すぎると感じた.

 

石の例えにしたってそうである.

別に丸みを帯びてたっていいと思うし,なんなら磨かれて輝く石だってある.

磨いた石の中にある層構造の美学は,むしろ磨かれなければわからないし,磨いたことのある者にしか理解できないだろう.

どっちを幸福とするか,どっちを自由とするかは,それこそ個人の自由なのだ.

本当の自由なんて言葉で規定するのは,僕にとっては暴力的に感じた.

 

しかしそれを全人類の幸福と規定したい人間が居るということも,僕が認めなければいけないことなのだろう.

別に彼らは僕の敵ではないし,彼らの思想に僕の思想を迎合させることができないだけで,学べることは多い.

それを含めてアドラー心理学の言葉を使うなら,「どう使うか」「どう捉えるか」は,僕の自由なのだ.

 

過去の見方を主観に変換するのは,やはり僕にとっては偉大な視点だと思う.

「〇〇されたからこうなった」ではなく「〇〇したいと思ったからそうした」「結果こうなった」と過去の対人関係を,主観から分析する.

そうすれば相手の複雑さを考慮しなくても,自分がどうしたかったかという目的を把握できる.

そうすれば自分の課題が,人生のタスクがシンプルになる.

 

過去を変えるために過去の見方を変えるのではない.

結局,こじれてしまった過去の人間関係を修復することはできない.

だから今の自分が変わるために,過去の覗き方を変えてしまえばいい.

 

自分の変化によって相手を変化させようと思ってはいけない.

自分の変化に伴って相手が変化する可能性はあるけど,それを目的にしてはいけない.

 

こうした考え方は,今の僕にはあまりにも大きなインパクトがあった.

アドラー心理学の非常に優れた思考だと,僕はそう思う.

僕の失敗を,厳密には今失敗だと思っている過去の経験を,こうした思考で紐解き,僕の糧にしたい.

 

アドラー心理学の思想のすべてに迎合することは,僕にとっては自由ではない.

だけれども,適用できる考え方はたくさんある.

そうした柔軟性をもって,この本を更に読み解いて行きたいと思う.

 

 

一旦終わる

さて,1万字くらい書いた段階でそろそろ今日の終わりが近づいてきた.

本当は今日感想を書き終えたかったのだが,3章まででタイムオーバーである.

 

本を読んでいた時間より,メモを取り,まとめ,感想にする時間の方が遥かに長い.

その分だけ本の中身を吸収できると,今はそう信じることにしよう.

いや,この方法こそが僕にとって一番の選択なのだ.

 

目的論的に言うならば,「本の中身を吸収する」目的で「内容をまとめて感想を書く」というアクションが出力されているのだろう.

面白い本なので,これからしばらくは僕の言動に多大な影響を及ぼしそうである.

 

本自体はすでに読み終えているので,明日また感想の続きを書こう.

記事のタイトルに急遽 (前篇) を付けてきた.

これで僕は後篇も書かなければならなくなったわけだ.

 

あとは4章と5章,そして全体の感想だけなので,今日読みながら書いたメモ書きを頼りに続きを綴るつもりだ.

5章は特に短かったので,それほど文量にはならないはずである.

 

さて,感想をまとめたら,次は課題図書として提出するための感想を書かなければならない.

具体的には800字程度という指示があったので,このレギュレーションを守って感想にする必要がある.

思うことが溢れてのこの文量なので,果たして800字で収まりが付くのか,今から激しく不安である.

 

まぁ感想に書きたい内容自体はいくらでもあるので,なんも感想がないよりかは贅沢な悩みだろう.

まとめた結果,中身がスッカスカにならないようにだけは注意しておこう.

 

「嫌われる勇気」については,おおよそそのとおりに感想を書きあげれば良い.

あとはまだ読んでいない「幸せになる勇気」も,早めに読みたいところだ.

 

課題図書だからとうのもあるが,単純に内容に興味があるのだ.

というのも「嫌われる勇気」がなかなかに面白かったので,その続きが気になるのである.

漫画本の続きが読みたいのと同じ感覚だ.

 

そんなわけで,感想文はさっさとまとめて次に移りたいのだ.

……だが,初見の感想をまとめたいという気持ちが強いのも,紛れもない事実である.

なので「嫌われる勇気」の感想を仕上げるのを優先しよう.

なによりそっちのほうが,1週間後に読み返すのが楽しみになりそうだし.

 

よし.

今日はここあたりで終わろうと思う.

明日はアルバイトがあるので,早めに寝なければならない.

十分に寝て,パフォーマンスを発揮できるようにしよう.

 

続き

id-no-nannraka.hatenablog.com