イドのなんらか

TRPGしたりキャンプしたりするITエンジニアの人間が書く雑記

悩むしつらいし苦しいし孤独になりもするがそれでも僕は幸福である

神はいない

この世界に神はいない.

学べば学ぶほどに,神という実在はないのだと知る.

 

断っておくと,僕は別に神を信じる者を馬鹿にするつもりでこれを書いたわけではない.

もちろん,その神を侮辱する意味合いでこの言葉を発したわけでもない.

僕にとっては今の所,神というものを認識できていないという話をしたいのである.

 

人は人との関わり合いの中で自己を規定する.

人間とは社会性を持つ生き物で,そのようにして社会を構築する生物だからである.

 

人間には上下関係がある.

親子でも,師弟でも,貧富でも.

関わり合いの中で,人は自分の居場所を知る.

 

見上げることができるのは,良いことだと思う.

高みに居る者を目指して歩むことができるのは,幸福である.

そうした者の存在を知ることで,人間は自己のあり方を規定することができる.

 

と,僕はそう思っている.

少なくとも僕は,そのようにして生きてきた.

 

ふと思うことがある.

もしも僕が一人だけになったら,僕は僕を規定して生きることができるのだろうか.

 

自己を規定して生きることは僕にとって幸福であると,そう言った.

しかしそれは関わり合いの中で得られる幸福で,その関わりがなくなったら失われるものなのではないか.

そんなことを思う.

 

明日,人が世界から全員いなくなってしまったら,それでも僕は自分を規定して生きることができるのだろうか.

この世にいない誰かのために,他者のために在ろうとする自分を,保つことができるのだろうか.

 

おそらく,今の僕ではそれができないのだと思う.

一人で居る時の自分は,怠惰で自堕落な人間だ.

それを人前に出さないのは,やはり関係性によって自己を規定しているからなのだと思う.

 

神がいてくれたのなら,別の答えを出したのだろう.

そのような状況に身をおいてもなお,自己を規定するために神を求めるのは,とても人間らしいことのように思える.

 

だが僕には神がいない.

どのような状況においても,僕は僕の思考で僕の答えを出さなければならない.

孤独であっても,僕は僕を規定して生きることの幸福を選んだ.

 

人がいなくなっても,僕は人のために生きたいと願う.

今ここにいない者を想えるのは,僕のセンスなのだと,そう信じたい.

 

嫌な夢を見た

唐突にこんなポエムを書くくらいには,僕には潜在的な不安があった.

孤独になったらどうなるのか,見放されたらどうなるのか,今いる環境から放逐されたら僕はいったいどうなってしまうのか.

 

今日はとても嫌な夢を見た.

お祈りされる夢である.

 

夢の中で,寝起きの僕を待っていたのは「検討の結果,ご希望に沿うことができませんでした.今後のより一層の活躍をお祈り申し上げます.」の文面であった.

とてもとても嫌なことに,夢の中で寝起きを経験し,夢の中でスマホを見て,夢の中でお祈りされたのである.

 

こんな夢を見てしまうほどには,今の僕の心理的安全性は低いのだろう.

そして,見放されるという状態への恐怖をもまた,非常に大きいのである.

 

今のところ,選考を受けている企業は1社となった.

5月から面談が続いている,このブログでもたびたび言及する企業である.

 

色々とお世話になった企業だし,入社したいという意欲も高い.

「これだけ面談を重ねたのだから,内定をくれないと困る」という感情は0ではない.

期待はしてしまうし,しないほうが不健全であるとも言える.

それにこの企業との面談を重ねる中で,就活という仕組みを利用して僕は成長をしていると実感できる.

 

それだけに,そこから認められなかったらという恐怖もまた,大きくなってきている.

いやまぁ実際には内定が得られなかったからと言って死ぬわけではないのだが.

それでも就活という仕組みの中で,僕はどうしようもなく期待と不安に駆られているのである.

 

「これだけやったんだから,きっと相手も評価してくれるだろう」という姿勢が,こうした不安を呼び寄せるというのは,良く知っている.

そしてこうした不安に駆られるたびに,結局のところ僕は評価されたいだけなんじゃないかって,別の不安がやってくる.

 

「他者からの評価」から「自己の受容」に視点を切り替えたいと,僕はそう言った.

内定をもらえても,もらえなくても,どっちの自分であっても「それが自分」だと認め,愛して生きたいと,そう言った.

 

だからこうして不安に駆られているのは,やはり「他者評価」を見つめてしまう自分がいることの証明なのだろう.

一朝一夕でその変化がもたらされるなどと思い上がってはいないが,なんというかつらいし苦しい.

今朝見た夢も含めて,これも変化に必要な痛みだと思うようにしたいところである.

 

勝たなくていい

負けないことと,勝つことは,似ているようで違う.

僕は勝つことに対して強いこだわりのない人間だった.

生存競争の中で,自分が過度にリソースを占有することを,良しとしたくなかった.

 

ただ,負けることに対してはなかなかどうして忌避感を持ってもいた.

劣っているのだという事実は,僕にとってはどうでも良かった.

「役に立たない」という事実が,僕にとっての恐怖であった.

 

人には個性があって,時には能力という指標で表されることがある.

ある場面において「役に立たない」人間は存在するし,その逆にある場面において「役に立つ」人間もまた存在する.

僕はイチローにはなれないし,なにかの間違いでメジャーのグラウンドに立ったとしても「役に立たない」人間になることは疑いようのない事実である.

 

「お前がいたらマイナスになる」と言われるのが,僕は嫌だった.

僕は,誰かを幸福にしたいと願うだけの余裕と傲慢がある.

「居心地が悪い」と言われるのは良い.

でも「お前はこないでほしい」と言われるのは,嫌なのだ.

 

僕はそうした,誰かの色眼鏡に適わない自分に対して「負けた」と定義していたように思う.

だから僕は,負けず嫌いなのだ.

 

こうしたメンタリズムは,やはり恵まれた環境によって育まれたものであるように思う.

経済的には困窮していなかった.

衣食住にも困らなかった.

両親の愛を受けて育ったし,兄弟愛も深かった.

だから,こうした「当たり前」以上の幸福は,求めるべきではないと悟っていたのだ.

 

20年以上の歳月を経て生きている以上,この幸福は「当たり前」ではないと,もうわかっている.

世界には経済的に困窮している者が大勢いる.

衣食住に困っている者がいる.

両親の愛を受けずに育った者もいるし,兄弟がいない者もいる.

 

僕は,どうしようもないほどに恵まれた環境で育った.

それが「当たり前」と思い,

 

僕の求める幸福は,それだけで高い水準にある.

それを求めることすら,幸福の平均値や中央値で見たら,高い場所に位置しているのだ.

 

いや,それが悪いことだとは思わない.

両親がもたらした幸福を否定したら,それこそ僕は僕でいられなくなる.

与えられたもののなかで幸福を探すのは,幸福に生きたいと願う者に与えられた唯一の手段だ.

 

僕の過ちは,そこにあった.

幸福を相対的なものと捉え,誰かに定義された幸福を求めていた.

「自分はすでに幸福だ」「あいつは僕よりも不幸だ」と,そういう考え方をして生きていた.

 

自分の幸せについて無頓着だった故か,僕は幸福の追求をやめていた.

それは快楽主義と言えるのかもしれない.

だからなんというか,僕の人生は無目的なものに見えるのだろう.

 

就活が僕にもたらした変化とは,つまるところそうした意識の部分なのだと思う.

僕は僕の幸福を追求する.

誰かの幸福を生み出すためにも,その手段として僕は幸せになりたい.

 

あまりにも冷たく進化してしまった現代社会において,それは強い痛みを伴う行いである.

それでも,僕はそれを求めるのである.

 

どっちに転んでも僕の人生

そんなこんなで就活に関する不安をつらつらと書いていた.

 

正直なことを言えば,やっぱり内定はほしい.

入社して働きたいと想える会社だし,尊敬できる人がたくさんいて,その中で僕もまたそのように在りたい.

 

浅ましさや愚かさを抱えながら選考を待つという不安は,やはり大きい.

関係性の中で幸福に生きるということは,この不安すらも楽しみに変えたいという願いでもある.

僕は,まだそれを楽しめてはいない.

当事者として楽しむことは,簡単なことではない.

 

だからせめてもの抵抗として,後で振り返った時に「あの時ああいう選択をして良かったよな」と思えるくらいには,一生懸命に就活をしたい.

未来の話題として楽しめる程度には,面白おかしい就活をしたい.

その演者は紛れもなく僕なのだから,せいぜい足掻くしかないのだ.

 

僕は「不安の中にいて,それで戸惑いもしたし,妥協もしたけど,それでも幸せだ」と,過去の自分にそう語りかけた.

思いも寄らない場所に居るということは,内定を得ても得なくても,僕は思いも寄らない場所に行くことになるのだ.

 

どっちに転んでも,僕の人生だ.

それが,僕の人生なのだ.

 

そうした前提を持った上で,面談の結果を待つことにしたい.

 

大丈夫.

今朝よりも,僕はそれを楽しめている.

その事実を,僕の胸の中に感じるのだ.