イドのなんらか

TRPGしたりキャンプしたりするITエンジニアの人間が書く雑記

暇になるとモノを考えるし自滅願望を持つようにもなる

猫の地球儀の前編を読んだ

今日は「猫の地球儀」というラノベを読んでいた.

雨の止んだ昼に外に出て,散歩コースの公園のベンチに座って読んでいた.

梅雨の湿気た空気が,雨に濡れて妙な匂いを発する緑と混じり合って鼻にまとわりつく,そういう環境で本を読んでいた.

 

この本は,いつも僕の就活を心配してくれる友人から借りたものである.

2000年に発行されたもので,20年以上の年月を経て僕の手元に在るものである.

曰く中古本として買ったらしい.

万物は時の流れに支配されるし,図書もまた例外ではない.

日焼けと腐食に苛まれたであろう痕跡が,あせた紙の色と質感から伝わってくる.

 

20年も前のラノベなので,絵柄とかももちろん当時のものである.

ぷにっとした少女と,パチッとした目の黒猫が可愛らしい,そういう表紙をしたライトノベルである.

 

相当に面白かったので,ネタバレはあまりしたくないタイプの本だった.

ただまぁ何も語らずに感想だけ書くのもアレなので,概要だけ綴ろうと思う.

 

この本は,SF小説である.

宇宙に浮かぶスペースコロニー「トルク」に住まう猫たちの世界を描いた,そういうSFだ.

人が消えて久しい人工物の城で,独自に進化したと思わしき猫たちが生きる,幻想的な世界観をもったSFだ.

 

宇宙のカビに覆われたコロニーの窓から映る地球,猫たちが地球儀と呼ぶ浄土をめぐっていろいろな思惑が交差する,そういうストーリーである.

理解されない天才が2人と,天才を理解できてしまう凡才が1人,3匹の猫が主役となり,地球儀を巡って青春するお話だ.

 

猫たちが織りなす群像劇は,奇妙だが妙なリアリティを伴って繰り広げられていた.

遠心力で擬似的な重力を発生させる円筒状のスペースコロニーは,ガンダムとかそういう典型的なSF作品で馴染みの深いものである.

人間の白骨死体が散見されるほどに古びた小さい箱庭の中で,それが猫の主観から語られるのが面白い.

 

独特な世界観であるが,それは確かにそこにある世界だった.

最近ので例えるとボイドテラリウムとかが近い感じの世界観だが,焦点を当てているところは別モノだ.

寂れた世界はあくまでも背景で,そこで生きる猫たちが主役なのである.

 

暇であることの特権

暇であると,どうしようもない事を考え始める.

思考というものは人間に与えられた特権であるが,この特権を暴走させると,僕らは妄想を始める.

 

幻想というものは現実を改変しうる力がある.

ゲームで義務教育を終えた僕にとっては,少なくともそれが真実だ.

 

トルクに住まう猫たちもそういう生物なようで,大半の猫は生きるために精一杯だが,一部の天才はそうではない.

外れているがゆえに暇で,それゆえの葛藤や苦悩を併せ持っているのである.

 

無知とは幸福で,知らない方が良いことは,この世にたくさんある.

有識者がそれを罪と嘲り,真実を伝えることには,大きな痛みを伴う.

 

無知な者を見下した時,賢者は愚者に成り下がる.

知恵と呼ぶ多くの物は,余暇から生まれた思考の産物である.

そして暇は誰かの無知を土台にして築かれる.

 

暇でない誰かの,生きるために必死な誰かの時間を糧に,暇なやつの思考する時間が成り立っている.

思考そのものは飯を作らない.

思考とは消費活動に過ぎず,手と足を動かさなければその先に対価を得ることができない.

 

優越感は,天才を凡才に変える.

それを忘れた者から順に,破滅を迎えるのである.

 

さて,僕は天才ではない.

周囲と外れていたという点では天才なのだろうが,スペックという点においては凡才以下のものである.

 

思考というものは,少なくとも趣向するものであった.

無為な妄想に耽るのは,僕の好きな行いだ.

 

無知である誰かを見下したことは,これまでに多かった.

その目はまず同級生に向けられ,次に教員に向けられ,身近な大人たちに向けられ,やがて家族にも向けられた.

 

今,その目は僕を向いている.

僕は愚かな自分に辟易し,それを見下して優越感を得ようとしている.

 

暇は,自滅願望を生むのだ.

少なくとも僕にとってはそうだった.

 

暇であることが悪なのではないが,天才ですらない凡才がそれを与えられると,ことさらつらい思いをするのかもしれない.

古代において,暇とは天才に与えられた特権で,それが種を発展させてきたのだ.

 

世界的に観ると,人間は増えすぎてきている.

僕は必要かそうでないかと言われたら,間違いなく不要な人間の側に分類されるのだろう.

生産性という指標で見たら,少なくとも世界中の人々の中では低い部類に入る.

 

僕の無為な思考と妄想は,誰かを救ったことがない.

いや,思考は誰かを救済したかもしれないが,妄想は未だ形を成してはいない.

 

それだけ裕福な時代だとも言えるし,それだけ暇というものもまた,凡才に与えられる余裕が生まれてきたのである.

ならばその暇の恩恵の分だけ,意味のある思考を重ねるべきなのだろう.

 

無知である幸福を捨てずには居られない時代において,凡人はどのようにして幸福を得ればよいのだろうか.

答えは多分,思考を形にすることだけなのだろう.

 

手を動かさなければ,僕は幸福を手にすることができない.

今の所は,それが僕の真実だ.

その上で,天才凡才関係なしに幸福になれる僕だけの何かを見つけることができればと,思わずには居られないのである.