業を背負って生きる
猫の地球儀の後編を読んだ
今日は「猫の地球儀」というノベルを読んでいた.
以前,前編を読んでいたラノベである.
これは借り物の本である.
昨日一緒に買い物に出かけた友人から借り受けた,そういう本である.
彼が僕にしたように,簡単なネタバレをする.
スペースコロニーに住まう猫が,どうにかして地球に行こうという夢を描いた,心温まるお話である.
ヒロイン猫が1匹,主人公とライバルの猫がそれぞれ1匹.
合計3匹の主役が青春しながら夢を競うのである.
ちなみにヒロインは宗教活動化の拷問にかけられて死に,主人公も夢の果てに死ぬ.
壮絶なネタバレだなと思ったが,まぁこの程度なら明かしてもそんなに作品を見る目は変わらないような気がする.
それくらい,作品の骨子はプロットにはなく,語られる言葉にこそあるのだから.
というのが,僕の感想のすべてである.
それくらいには,言葉の魅力が詰まったライトノベルであった.
小説という言葉は,ノンフィクションの実用書である大説の対比として用いられてきたものである.
フィクションである,架空の,取るに足らない言説だから「小説」なのだ.
作中に出てくるのは,猫と,カビと,ロボットと,ネズミと,ゴキブリくらいである.
豊かな大気と緑と水に満ちた地球に住まう僕には想像もできないほど薄汚れていて,それが幻想的な世界である.
まさにフィクション,まさに小説といえるだろう.
つまるところこの本は夢物語であり,取るに足らない小さき存在である.
しかし物語の中に生きることでしか前に進めない者もいる.
僕もそうだ.
少なくとも,そうであった.
現実はあまりにも大きすぎたから,物語を求めた.
猫たちも,そうだった.
天才であっても,凡才であっても,多くの者達は物語の中でしか生きられない.
その代償は,いずれ現実で埋め合わせられる.
これは,そういう本なのである.
夢の代償
空想は現実を蝕む.
小説と呼ぶには,その力はあまりにも強大すぎる.
物語というものが持つ力は,現実を改変しうる.
僕はそれを知っている.
たまたまゲームというものが,僕にとってそれだっただけである.
にくい作品だなと思う.
猫たちの夢物語は幕を閉じたが,トルクの世界は続いていく.
夢を持ち,それに殉じた猫たちは偉大であった.
しかし彼らがいなくなっても,やはり世界というものは動いているのである.
スカウウォーカーの三十七番目も,当代の多爾袞も,その他凡百の前では空想に成り下がるのだ.
おそらくはそれが,現実というものなのだろう.
物語というものはそういうもので,現実を前にしたとき,誰かの夢とはつまるところ物語でしかない.
夢の当事者は,自分だけなのだ.
しかし夢というものは流れ出て,周囲を蝕もうとする.
夢を介して自他の境界が薄れたとき,現実は改変される.
そしてその代償は,必ず現実で埋め合わせられるのである.
僕はなにか夢を持ったことがあるのだろうか.
少なくとも今,僕は就活という現実で,空想と混じり合った主観のツケを支払っている最中である.
そこには物語があり,夢があるはずである.
ならば僕にも,やはり夢というものがあるはずなのだ.
「いつか,誰か,これを求める者のために」
以前そういう物語を口にしたのだから,これは漏れ出た僕の夢の残滓なのだろう.
願わくばその夢が,ちっぽけな子猫のように血を見る者のないようにしたいものである.
傲慢さを理解して生きる
人間は有限のリソースを消費して生きる.
少なくとも僕は,そのようにして生きている.
自分の人生を歩むということは,誰かの人生をも消費していることにほかならない.
関わり合いの中で,僕は誰かの人生に乗っかって生きている.
両親と兄弟はその最たるものであるし,友人もそうだし,物語を提供してくれるクリエイターにしたってそうだ.
そしてその数よりも,見えないところにいる者の方が圧倒的にマジョリティである.
糧を生産する農家やそれを運ぶ流通,それを売る者,料理する者,提供する者.
飯を食うだけでも相当な人々のリソースを消費している.
生きるということは,それだけでも傲慢な行いだ.
だから誰かのために生きるというというのは,当たり前の礼儀なのだ.
……と,そういう思考に傾倒していたのが,以前の僕なのだと思う.
僕が傲慢に生きているように,誰かもまた傲慢に生きている.
そしてそれに消費されるリソースの一部として,僕の人生は含まれている.
だから,誰かのために生きなければいけないという道理もない.
生きながらにして,僕は誰かの人生のために消費されている.
人間とはそういう風にしか生きられない生物で,そして僕は人間だ.
だから,僕も自分の傲慢に向き合うことこそが礼儀なのだ.
かつての僕は,それを悪しと定義して遠ざけようとした.
夢というものを失っていたように見えるのも,それが原因だろう.
とはいえコレも僕の物語である.
そう思うことに,良しも悪しもない.
結果として救われなかったことが,ただただ悲しいだけなのだ.
僕は傲慢にも幸せになろうとしている.
その果てに夢を見ようと,そういう業を背負って生きている.
そしてその代償は,いずれ現実で埋め合わせられる.
それを一生続けていく.
それが僕の人生だ.
その果てに生み出せるものもあるのだと,そう信じたい.
それが誰かにとっての物語となるのならば,僕はそうなりたいと思う.
ライトノベルとして残された物語であるが,そこから得るものはあったのだ.
この本は作者の傲慢で産み落とされた産物だが,僕の傲慢で消費されたコンテンツでもある.
そのようにして,世界は成り立っているのである.
元気が出た
へんてこな本だなと思う.
結末や言説に感涙する話ではないのだが,感情の妙なところを刺激する本だと思う.
あらゆるフィクションも,学びを現実に落とし込めばつまるところ
「君は君の現実だけを生きよう!」
ということで,その表現方法が違うに過ぎない.
自分の現実をフィクションに投影したとしても,自分が主役として観測する以上,どこかで現実の埋め合わせがやってくる.
だからまぁ,ノベルもゲームもスクリーンも,あらゆるものは自分の現実という特別性に比べてしまえば,凡百の物語でしかないわけである.
それでも,この物語は特別なものだと思う.
そう思いたい.
僕が傲慢にも物語を消費したように,物語の側もまた傲慢にも僕の人生を消費したのである.
物語は,読者の手に渡ることで完結する.
この物語は僕の人生の一部となり,僕もまた物語の一部となった.
そう思うことで,救われる感情もあるだろう.
なんにせよ,この本を読んで元気をもらったのだ.
その恩くらいは僕の人生で返したいと思うのも,傲慢ではあるが僕の望みだ.
そしてこの本を貸してくれた友人にも,感謝しなければ.
少なくともコンテンツとして笑われるくらいには,凡百にとってくだらない,そして誰かにとっての特別な人生を生きるのだ.
それがこれからの僕の夢であり,一つの目標なのである.