何処までを意思とするか
意思決定と自然現象の境界を引く
今朝とんでもない下痢に襲われた.
トイレに籠って無力感に苛まれている最中に思うところがあった.
なので今日は早い時間に記事を投稿しようと思うに至ったわけである.
先日読んだ「嫌われる勇気」には,多くの新鮮な学びが詰まっていた.
アドラー心理学というものは主観の心理学であり,哲学である.
自己の意思決定を全て「目的」に準ずるものと考える「目的論」をベースに発展した思想である.
旧来の心理学で用いられてきた「原因論」と対を成す考え方だと,本では述べられていた.
本を読み,感想を書いてもなお,僕の中でいまだにモヤッとしていることがある.
それは目的論と原因論という対比を,対立関係に置いて論じていた点である.
さて,僕は昔から下痢になりやすい人間だ.
なりたくてそうなったわけではなく,ただただ腹を壊しやすいという身体的特徴がある.
おそらくは心理面が多分に影響されてそうなったのであろうが,排泄行為というものは生物的な本能に基づいて行われるものでもある.
僕は「目的」を持ってして下痢になっているのか,それとも何か「原因」があって下痢という結果が誘発されているのか,それを断定することはおそらくできないだろう.
不安を解消するためのツールとしての便意というものは,確かに目的に沿ったものでもあると言える.
日本という国において,少なくとも今現在,トイレの中というものは外界から隔離された世界だ.
だから便意を催したと言えば,隔離された一人の世界に逃げ込むことができる.
不安がちな人間が下痢になりやすいという特性を持っているのであれば,確かにそれは目的に沿った特性であると言える.
しかし便意とは偶発性を以てしても発生する.
人間は激しい便意に襲われた時,トイレに行きたいから行くのではなく,トイレに行かなければならないからトイレに行くのだ.
トイレで便意を解消しなければならないという目的の後ろには,確かに多くの目的が存在していることだろう.
しかし行動を促したのは紛れもなく,偶発的に発生した便意という原因である.
おそらく,僕はその両方に基づいて下痢になっているのだろう.
どちらも尤もらしいということは,どちらも僕の下痢のプロセスなのだ.
側面としての見え方でどちらに比重があるかというだけで,どちらも内在しているのである.
まぁ目的論的にも原因論的にも,下痢がちな体質の改善方法はある.
心理的に安全になること,そして身体的な健康を手にすること.
そのために思考パターンにメスを入れ,行動を変容し,身体を動かして,食事を改善すること.
言ってしまえばそれだけ簡単な,そして困難な目標だ.
目的論と原因論は,対立させてどちらか一方を選び取るようなものでもないのだろう.
しかしどちらの理論も,過去の行動を理解するツールとしては優秀だ.
都合よく使い分けて,けれども独りよがりにならないよう,バランスを取りつつ上手いこと付き合っていきたい.
とまぁ色々と独り言ちっていても何も始まらない.
何かを始めなければ.
なのでとりあえず配信でもしようと思う.
何もない配信でも,とりあえず始めてみて,そこで何かときめくものを探せばいい.
ただそれだけである.
僕のチャンネルのリンクでも貼っておこう.
執筆配信を始めてみても良いかも知れない.
多大な問題を抱えているとは思うが,就活を配信にしてしまうのも面白そうだ.
自分をコンテンツ化してしまえば,僕は僕のことを事実として捉えることができる.
逆に自分をツール化してしまうと,僕は僕のことを認識できなくなっていく.
過去の自分はもう,コンテンツになっていったものたちだ.
どう楽しむかでしか,その存在を供養することはできない.
過去の自分を道具として振るうことはできないのである.
そんなことを思った朝だった.
トイレに住んでいただけでも記事というものは書けるのだと,我ながら感動している.
昼飯を済ませたら何か配信する.
まぁ誰も見に来なくても,なにかに向かって話すというのは良いものだろう.
誰かに話しているという主観さえあれば,独り言は独り言でなくなるのだ.
よし.
今日の午後も,頑張ることを楽しいと思える範囲で頑張るとしよう.