イドのなんらか

TRPGしたりキャンプしたりするITエンジニアの人間が書く雑記

中二病なのでカオスという言葉に強く惹かれる

カオスってなんだよ

カオスって言葉ってなんか響きがカッコいい.

僕は遊戯王世代だったので,カオス〇〇という固有名詞にとても強いワクワク感を持っている.

 

カオスとは辞書的な意味によると,日本語で「混沌」を意味する言葉だ.

混沌の黒魔術師とかマジシャン・オブ・ブラックカオスとかそういうモンスターもいたけど,まぁそういう翻訳なのだ.

 

さて,混沌とは「区別の付かない程に物事が入り混じった状態」であるらしい.

コスモスとか秩序とかの対義語である.

要はなんかよくわからん状態が混沌なのだ.

 

遊戯王的な解釈だと,光と闇が混じったらカオスになる.

僕はこっちの解釈が好きだ.

陰陽の概念に通ずるところがあり,より身近に「カオス」という言葉を感じることができる気がするからだ.

 

カオスであるということは,原始的であることを意味するように思う.

未開の状態であり,故に秩序がなく,複雑な様相を示すもの.

相反しつつ,だけども一方がなければもう一方も存在することができない.

物事の原始的な姿は,混沌の中で何かが調和してできているのだと,僕は思う.

 

僕の心の内面は,相応にカオスである.

少なくとも,僕はカオスだと思っている.

思考の中に含まれる解析不能ブラックボックスが,僕のカオスの正体だ.

 

さて唐突にこんな話をしたのは,僕の心にある闇と光の状態について解析したい欲が湧いたからだ.

なのでちょろっと自分のカオスを解析してみようと思う.

 

カオスな自分を解析する

さて,僕が尊敬してやまないネ実の英雄の名セリフのひとつに

「ダークパワーっぽいのはナイトが持つと光と闇が両方備わり最強に見える」

という言葉がある.

逆に暗黒が持つと頭がおかしくなって死ぬ.

 

僕はナイトではないので,ダークパワーに触れ続けると頭がおかしくなって死んでしまう.

闇を背負ってカオスを従える存在になるためには,人が生来持つ光を知らなければならない.

 

僕は自分のHPを削って戦う暗黒騎士なので,ダークパワーを使いすぎると頭がおかしくなって死んでしまう.

ダークパワーとの付き合い方は重要だ.

 

僕の特徴的なふるまいの一つに,「嫌いなものを直視する」というものがある.

僕は昔から,嫌いなものについてより深く知ろうとする特性があった.

 

きのこが嫌いだから,きのこの図鑑をかじるように読んでいた.

マスコミが嫌いだから,なぜ嫌いなのかを構造的に把握しようと勉強した.

 

「なんか嫌い」という感性を捨てて「なぜ嫌いなのか」を突き詰める行為を,反射的に行ってきていた.

だから嫌いな物事はそこそこ多かったし,その理由もある程度は説明できる.

社会通念的に好ましいとか好ましくないとかじゃなく,僕の信念に基づいて,多くの物事の善悪や好き嫌いを見極めてきた.

 

人を嫌いになったことは,あまり多くない.

嫌いになる人間は,得てして執着する対象でもある.

このブログで度々出てくる東方オタクの彼も,愛憎入り混じった不思議な関係の一つだ.

 

人に対して優しくあれるのは,僕のライトサイドの特徴だと思う.

というよりも,人に対しての感謝やリスペクトが大きいのが,僕の特徴なのかもしれない.

 

三男に生まれついた関係か,自分がヒエラルキーの一番下に居るという感性は,ずっと続いている.

集団の中に居ると,ステータスとして自分が一番低いものを探し出そうという癖がある.

だから,どこかの面において自分が他者よりも明確に劣っていることを知っているし,自分にできないことが誰かにできることを本能的に理解できる.

 

僕の欠陥は,自分が誰かよりも優れている面を,優れていると認識できないところにあるのだと思う.

僕は基準のレベルが高いと,多くの人から言われる.

完璧主義とか潔癖症とか,そういう言葉でも僕を表現することができるかもしれない.

 

僕は僕の優れている一面を知ることが,極めて困難な人間だ.

誰かに「君ってこういう人間だよね」「ここが良いよね」と言われて初めて,そういう強みが存在することを理解できる.

 

以前の僕はそういった励ましだったり褒めたりする言葉に対して,「いや僕なんかはそれほどでも……」と反応していた.

そういった言葉に対して素直に向き合えるようになったのは,僕が明確に成長した点と言える.

 

とにかく,僕は自分のことを理解しようとする際に,自分の闇の面から見ようとする癖があるらしい.

だから自己評価が低い.

いや,自己評価が低い人間のように周りからは見える,といった方が正しいのか.

 

僕自身,僕には僕なりに周りを幸せにできる力があると,そう確信している.

僕が持ち合わせている価値基準は高いものかもしれないが,それをもとに導き出した解放は,僕が幸福にしたいと思う相手を幸福にできると,自分のことを無条件に信じている.

 

僕はエゴの強い人間なのだ.

だから誰にでも優しくしたいと思うし,仕組みや構造を理解して改善したいと思うし,それを通じて自他ともに幸福になりたいと,本気で思えてしまう.

 

結果として,誰もできなくて自分ができることがあれば,それを勝手に見つけて勝手にやり始めてしまう.

無限にやることが見つかれば,無限にやることを増やそうとする.

それで幸せにできる人間が居るとわかっているから,それを無条件に引き受けてしまう.

 

それは相当に体力の要る行いである.

そして僕が明確に弱みとしているのは,バイタリティの低さだ.

だから僕は理想と現実のギャップに苦しみ,それを達成できない自分に対してコンプレックスを抱く.

僕が悲観的で,目標や理想に対して忌避感を抱いているのは,こうした部分が原因なのだ.

 

さて,僕のダークサイドはかなり理解してきたように思う.

問題は僕のライトサイドであろう.

 

僕は自分の光をあまり直視してこなかった.

僕は誰かを幸せにしたいと願いながらも,僕自身に魅力があるとは微塵も思っていなかった.

だから僕は,僕が成したことでのみ誰かを幸せにできるのだと思っていた.

 

だがどうやら,それは僕の思い違いらしい.

というのも,僕が思っている以上に,周りの人間は僕に対して安らぎや落ち着きを覚えてくれいるようなのだ.

 

僕のことを直視してくれる人間は,概して僕を「優しい」「誠実」「真摯」と評してくれる.

僕のダークサイドである基準値の高さや自己評価の低さは,「謙虚さ」や「美意識の高さ」に変換することができる要素でもあるのだ.

(僕の美意識は大分独特なようだけど)

 

僕に対し,闇と光は表裏一体と説いてくれた人がいる.

なるほど,確かにこうしてみると,ダークサイドもライトサイドの一部であることがわかる.

 

周りの景色をありのままに受け止められるのは,僕が僕として持ち合わせた天性の才なのだ.

そして僕はそれを僕だけの基準で受け止め,僕なりにリスペクトし,僕なりに感謝して,僕なりの態度で接することができる.

 

「かくあるべきだから,かくあらんとする」

東方オタクの友人は,僕をそう評した.

僕はそれを,誇りに思う.

 

僕の願いはただただ「ひたむきに生きたい」

ただそれだけである.

その道すがらに幸福を感じ,振り返った軌跡が誰かの幸福で満たされているのなら,それほど嬉しいことはない.

 

今までの僕はダークサイドばかりを見つめていた.

ライトサイドを見つめるのは,これからやるべき作業だ.

僕がしてこなかった,明確に苦手とする作業だ.

 

苦手なことは,他者と分け合うべきだ.

それは僕がニート生活で学んだ,数少ない教訓の一つだ.

 

僕が自然にそうできていたように,僕ができないことでも,誰かがやりたがってくれる物事だって多く存在する.

僕の光を知るためには,誰かに対してその光を向けなければならないだろう.

そのようにして,誰かに僕の光を知ってもらうのだ.

 

その上で,僕のライトサイドを教えてもらおうと思う.

そうすれば,僕はこのカオスな心のあり方を理解できるようになるはずだ.

そしてきっと,僕はもっと僕のことを愛して生きられるはずなのだ.

 

就活してきた

さて,こんな話をしていたのは,他でもなく今日受けてきた面談が理由だ.

社会人経験の豊富な方と面談をした結果,色々と発見や思うところが見つかったので,思考の整理がてらに記事にしたというわけである.

まぁそこまでまとまったわけではないのだが,少しは自分のことを理解できるようになってきたと思う.

 

さて,今日の面談相手の方は,僕にたくさんの金言を送ってくれた.

特にありがたかったのは,自分のビジョンについての話しだ.

 

僕は「ひたむきに生きて,その過程が幸福で満たされていたら良い」と願っている.

それはあまりにも稚拙で,そして難しい理想だと,僕はそう認識している.

それでもこれが,僕の人生のビジョンだ.

 

僕はこうしたビジョンを持つことを,本気で恐れていた.

目標を建てることを嫌っているように,僕は未来の自分に呪いを残すことを病的なまでに忌避していた.

 

そんな僕に面談相手の方は「引き寄せ」の話をした.

何をベストとして生きるのかを信じれば,そこに近づくことができると.

信じたところに行けると信じれば,そこに引き寄せられると.

 

僕のビジョンは,あまりにも救われない願いなのかもしれない.

真摯に,誠実に,ひたむきに生きるには,あまりにも障害が多すぎる.

それでも願うことをやめれば,僕はそれを成すことはできないのだ.

 

将来の事はわからない.

僕自身,10年前に掲げた未来像とはかけ離れた場所に立っている.

だから目標や理想を掲げることに,大きな恐怖を抱いている.

 

願いや理想は不変でなくても良い.

それでも,今の自分の気持ちに正直になってたどり着きたい未来に向かっていると信じることができなければ,そこにたどり着くことは決してかなわない.

不確かな願いを抱えて生きることは,決して悪いことではないのだ.

 

理想と現実が違っていたからといって鬼の早さで諦めて逃げるのは,きっと僕にとっては間違いなのだと思う.

心が壊れても,僕は僕のビジョンのために生きてみたい.

その結果どこかで折れたとしても,きっとその先で新しいビジョンを見つけて生きるだろうから.

恐れずに生きてみたいと,そう思った.

 

「就活が苦手なことは悪いことではない」という言葉にも救われた.

僕は就活が相当に苦手な人間だが,逆説的に僕のアイデンティティを容認しない組織を本能的に遠ざける能力があるのだと.

これもダークサイドからライトサイドへの変換である.

 

多くの物事は,陰陽が混ざり合って成り立っている.

大体の人は,その事実にあまり大きな興味を示さない.

それでも多くの人は,光の部分を多く知って生きてる.

その反面,僕はその闇を見つめることが得意な人間であった.

 

この力をもっと活かせるようになろうと思う.

そして暗い気持ちに押し流されないよう,他者と共存し,自分の光も愛せるようになりたい.

 

本格的に発症した中二病は治らない

さて,4000字くらいかけてとんでもないポエムを書き上げてしまった.

そろそろ日付が変わってしまうので,ここあたりで記事を締めようと思う.

 

カオスという言葉は,否応なしに僕の中二心をくすぐってくる.

光と闇が合わさった状態と聞いてよろこばない男はいない.

 

僕はカオスな人間だ.

そして僕は光と闇が両方備わった人間だ.

それを解き明かすのだから,これからの人生もなかなか面白いものになるに違いない.

 

さて,明日は今日と同じ企業の方と,また面談がある.

今日と同じように適度にリラックスし,適度に緊張感を保って面談に挑もうと思う.

そして今日とは違う明日の自分で,今日とは違う明日を生き抜きたい.

 

そのためには,今日の面談の感想を書かなければならない.

面談をしていただいた以上,相手の礼儀に則って誠実さを示すべきだろう.

実はこのブログの所在を先方に伝えてしまったので,もう後戻りはできないのだが.

 

とはいえこの記事自体が巨大な感想文のようなものだ.

あとはこれを圧縮して伝えるのみである.

(どうしたものか……)

 

まぁそれは明日の自分が頑張ってくれることだろう.

今日の僕は,明日の僕のために寝るのが最期の仕事だ.

 

よし,書くことは書いた.

今日の夜もきっと,良く眠れるはずだ.