イドのなんらか

TRPGしたりキャンプしたりするITエンジニアの人間が書く雑記

広告を食ってるヤツらは別に許せないわけじゃないけど理解はできない

旨いものは無条件に旨い

 

カレーライスは旨い.

ハンバークも旨い.

からあげも旨い.

 

全部旨くて,僕はどれも大好きである.

奇をてらわずとも,旨いものは旨い.

 

さて,なぜこんな話をしたのかというと,母親がカレーにトマトジュースを入れたからである.

煮込む際に,水の代わりにトマトジュースを使うというテレビとかでやられてるアレである.

 

我が家はバーモントカレーを好んで食っているのだが,なぜバーモントカレーばっかり選んでいるのかというと,これが一番旨いからである.

なのでカレーライスを作る時は,バーモントカレーの味が食いたくて作っているというわけである.

カレーライス自体に魅力を感じているわけではなく,バーモントカレーが旨いからカレーライスを作るのだ.

 

ところが母親は,何に影響されたのか,唐突にトマトジュースでカレーを煮込み始めた.

なんてことだ.

これではバーモントカレーの味が失われてしまうではないか.

 

ちなみに飯は母親が全部作っているとか,そういう家庭ではない.

僕も相当に料理をする方だし,ハンバークに関しては僕が一番作るのが上手い.

 

カレーを作るのが得意なのは,一番上の兄だ.

奴は相当に料理上手で,舌も肥えていて,旨いものを探すのが上手い.

そんな奴がバーモントカレーが一番旨いというのだから,まぁバーモントカレーは最高に旨い飯なのだ.

 

昨日カレーを作ったのも,兄であった.

だからバーモントカレーの味がするカレーライスを食うことになると,僕は期待していた.

なのでトマトジュースに汚染されたバーモントカレーが出てきた時は,酷くがっかりした.

 

いや,別にトマトジュースを入れたカレーがまずいわけではない.

ただただ単純に,トマトジュースを入れない方がバーモントカレーは美味しくなるというだけなのだ.

ただそれだけなのである.

 

何が言いたいかというと,意味のない付加価値というものは,確かにこの世に存在するということだ.

 

僕は広告を食べてる人間を理解できない.

有名であること,ブランディングされていることが,物の本質的な価値を生み出すわけではない.

特に消耗性のものや食物などは,物が内包している効用こそが本質的な価値であり,広告などで付け加えられた情報はあくまでオプションなのである.

 

世の中には,なかなかどうしてそういう意味のない付加価値が溢れている.

そしてそれは多くの場合,誇大広告という形でばら撒かれてもいる.

 

例えば,一蘭というラーメン屋がある.

僕は一蘭が嫌いだ.

理由は簡単で,値段の割に大して美味しくないからである.

 

なるほど,セントラルキッチンで作った濃縮スープを店で戻して,麺を茹でて提供すれば,安価で統一された味になる.

味もそこそこで,これならラーメンとして十分に旨い.

 

だがあの値段はないだろう.

店で昼夜仕込んで作れたスープほど深みもなく,麺の茹でにも職人の技を感じない.

万人受けはするが,決して僕に向けて作られたものではない.

それでいてスタートが900円オーバーである.

 

広告を食いに行くわけでもなかったら,あんな店に行く必要はない.

理由は簡単で,一蘭よりも明確に旨くて,一蘭よりも明確に安くて,一蘭よりも明確にサービスが良い店が存在するからだ.

まぁその接頭辞に,「僕にとっては」という言葉が付くのだが.

 

まぁそれでも一蘭が好きな人間が居ることを,僕は否定しない.

あのラーメンは僕のために作られたわけではなかったが,誰かのために作られたものであることは確かだ.

だからその誰かは,あのラーメンを美味しく食べるべきだ.

 

話題が逸れた.

何が言いたいのかというと,僕は広告を食べるつもりはないということだ.

 

僕は料理に大してわけのわからない付加価値を付けたくない.

塩麹を使わなくたって,大体の料理は塩だけで旨く味付けできる.

天然水を使わなくたって,米は水道水だけで十分に旨く炊ける.

 

そういった当たり前は,僕にとって非常に重要な現実だ.

だから僕は,バーモントカレーにトマトジュースを入れた母親の考えが理解できない.

広告を食べて生きている人間を,僕は理解できないのだ.

 

まぁだからどうしたという話なのだが.

広告を食っている奴らを,別に許せないわけではないのだ.

ただ理解できないだけで,彼らは彼らの味覚を信じて飯を食えばいいだけなのだ.

 

それが僕の食に侵食してきた時,僕は危機感や嫌悪感を抱くのだ.

家庭料理というものは,ありがたいものであると同時に,困った特性を抱えてもいる.

好評なものもあれば,不評なものもある.

 

僕はその基準に,誇大広告だけは混ぜたくないのである.

だからこうして2000文字もかけて,母親の愚行を批判しようとこうして記事を書いているのだ.

 

決して一蘭をバカにする気はなかった.

いや,まぁそこそこバカにしたい気持ちはあったけど.

それでもまぁ,別に一蘭の存在否定をする記事ではないのだ.

 

ただただ,僕は誇大広告を食うことはしたくないと,そう言いたいだけの記事なのだ.

 

就活してきた

トマトジュースカレーを食ったせいで,なんというか不毛なことをつらつらと書くことになってしまった気がする.

これもトマトジュースをカレーに入れると美味しいとかのたまうテレビ番組のせいに違いない.

うん.

 

さて,今日も就活してきた.

昨日の記事に書いた企業と,今日も面談があったためだ.

 

今日は2対1での座談会となった.

トピックなどは定めず,質問したりして話の種を見つけ,そこから色々と対話していく形である.

 

内容としては,僕から両名の仕事について何をしているのかを質問したり,新卒はどのように仕事を始めるのか,どういうスタンスだと馴染みが良いのかなど,実務の面をいろいろと聞いた.

後は昨日と同じように,自分という人間について,対話を通じて探求を進めた.

 

思考パターンの分析は,ここ2ヶ月程度で急速に進んできていると思う.

僕はは抽象度の高い会話をすることが趣向として好きで,またそれが得意でもある.

一方でそれを現実的なレベルに落とし込むのが苦手で,だから具体性を欠いたり,理想と現実のギャップに悩んだりすることが他人より多い.

 

また物事を認識するネットワークが,基本的にネガティブなアウトプットをするという特性を持っていることもわかってきた.

そして僕は対話を通じてしか,自分の思考を整理する術を持たない.

だから発する言葉がネガティブワードになるのである.

 

そんなことが,面談を通じて段々と分かってきた.

こうした特性を原因として,総じて人を不安にさせるような言動をしてしまうのだろう.

深く付き合った者ならそうした特性を理解してくれているから,「ああ,これはいつものこいつだな」とわかってくれる.

しかし初めて僕に会った人や,関わりの深くない人にとっては「なんかネガティブなことばっか言ってるなこいつ」と思われてしまうわけである.

 

そしてそうした特性が,僕の「優しさ」や「誠実さ」,「謙虚さ」や「真摯さ」に繋がっていることも,段々と分かってきた.

自分にできないことがたくさんあると知っているからこそ,他者に対してリスペクトすることが自然体にできるのだ.

 

そうした僕の特性は,悪く捉えようとすればいくらでも悪いように捉えられるし,利点にしようと思えばこれ以上ない美徳であるとも言える.

結局の所,どう活用するか話なのだ.

 

だったらより幸福な使い方をした方が,僕にとっても周りにとっても,得というものだろう.

僕はその方法を,人生を通して実験し,知る必要があるのだと思う.

 

さて,今日の面談はこういった内省が進むものであった.

就活において,すべての面談が今日のような良質なものであるとは限らない.

むしろ精神を削って戦う舞台であることの方が,振り返ると多かったように思う.

 

だから,こうして考えることの多い対話の機会は,僕にとっては有り難い.

就活をしていると失うものの方が多いから,その中からも得るものがあるというだけで,僕は前に進めているという実感が湧く.

 

そう,僕はこの面談の場に対して感謝をしているのだ.

あれだけ毛嫌いしていた就活というイベントにおいて,僕は高揚感を覚えている.

願わくばこれが熱病のような,一過性のものでないことを祈るばかりだ.

 

面談では,十分に僕のことを開示する機会が得られたと思う.

後は相手方がどう捉えるか次第だ.

こればかりは自分でもどうしようもない.

せいぜい前向きに,良い未来を信じて吉報を待つことにしようと思う.

 

さて,今日の就活はなかなかに充実したものであった.

明日の予定はなにもないので,色々と不足してきたものを買い出しに行ったりしようと思う.

特に飲み物がなくなってきたので,箱買いしなければならないだろう.

 

そんなこんなで,明日も良く生きようと思う.

よし.

 

今日はよく頑張ったぞ!!偉いぞ俺!!!!

明日も頑張れ!!頑張ることを楽しめ!!楽しくなくなったら休めよ!!!

昨日の僕はお前を応援しているぞ!!!

うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお