そはなにものなるや
出会いというものは人を変える。
という言葉が真実であるのなら、僕は確かに変化をしているはずである。
いや前提が抜けている。
それは僕が人であるならという話だ。
さて、お仕事を始めてから、早くも1ヶ月と少しという時間が経った。
大きな会社ではないが、それでも多くの人との出会いを重ねたと思う。
僕は、何かが変わったのだろうか。
生活習慣は変わったと思うし、twitchで配信を見てテキトーに家事をして飯食って寝て、というルーチンは、なくなったと言えるはずだ。
お仕事には熱心に打ち込んでいるし、楽しめてもいる。
が、僕の本質に何かの変化がもたらされた、という実感はない。
住むところが変わっても、僕は怠惰である。
遊びも仕事も、目の前にある何かに嬉々として飛びつくという点では、何かが変わったわけではない。
飯の好みも変わらないし、睡眠時間も未だに長い。
酒も飲むし、喋れば煩いし、足元がお留守な点も解消される兆しがない。
変わったのは、環境だけなのではないか。
そう感じてしまう自分がいる。
そして、それに焦りを憶える自分もいる。
僕は、何か変わりたいと思っていたのだろうか。
僕は何者かになれると、そう思って就職をしたのだろうか。
世界は、何者かになった僕を求める。
少なくともそのように、僕の目には映る。
僕は、誰か一人にだけ理解をされれば良いと、本気で思っている。
僕という人間の本質は誰にも理解され得ないと、心の底から信じている。
だけれどもそれはあまりにも悲しすぎるから、せめて誰か一人でも、と願うのである。
我ながら、愚かな思想を抱いたものだ。
そしてそれを寄る辺にすると、そう宣言した。
そんなんだから、こんな記事を書いてもしまう。
今日は社長と飲みをしたのだが、つまるところそういう話をしたわけである。
具体的にどうのこうのの話はヨソでしたらアカンよねというお話しは社内で出ているのでしないが、そういう出来事があった、程度であれば語っても問題はないだろう。
僕はこんな生き方をしているので、哲学チックな思想を抱えて生きることが当たり前であった。
そして、その生き方は通常の生き方でないことも知っていた。
だから、僕は孤独だったのだ。
オタクというロールを持ってしても拭いきれない疎外感を、高専という異端の中でもこらえきれない悪性を。
いやそれを悪と断じるかどうかは別にしてもだ。
僕はそういうものを内包して、これまで生きてきた。
そういう話に理解を、そしてその上を行く哲学的なこだわりを。
一種の子供らしさ、傲慢を持っている人と出会ったのは、これが初めてだったから。
だから、社長に惹かれるところがあるのだろう。
そんなことを思ったので、よくわからん書き出しでよくわからんことを書いているのである。
おそらくは酒の影響が大きい。
翌日に仕事がある日にアルコールを体内に入れたのは、今日が初めてだ。
そうして、僕の生活習慣は変容する。
ああ、なんだ。
出会いで変わるところもあったのだ。
それは僕が人であることの証明のひとつだ。
大事に抱えていかなければならない、生命の営みなのだ。
そうした多くの継承を、やはり誰か一人にでも託したい。
それを再認識した、そんな1日であった。
お酒を入れたが、明日は予定通りにお弁当を作る。
なので酔ってはいるが、帰宅したら米を炊いて明日の準備をする。
こうして、少しずつ大人の楽しみを知ろうと思う。
それが、10年前の中学2年生だった僕に対する、大人の在り方なのだ。