あらゆる物事にはそれほど大した意味はないのかもしれない
今日も楽しくお仕事してきた。
これはもしかしたら過酷かもしれない労働を、なんとかして乗り切るための祝詞なのかもしれない。
まぁ今のところは重労働ではないし、達成感も満足感も、充足感もあるので文句はない。
大変だが、楽しいのでよいのだ。
働いていてわかってきたことは、何をしても理解できることは、あまり多くないということだ。
理想としては、学ぶ対象からすべての物事を吸収したいのだが、現実はそうはいってくれない。
伝達には必ず欠落があるし、習得する過程で多くのエッセンスが抜け落ちけ行く。
僕は、手元に残ったわずかな手がかりから、必死に学んだという事実を誇示し続けなければならない。
そのたびに僕は、なぜ、という疑問を繰り返す。
なぜ僕は、もっと頑張れなかったのだろうと思い、その思考に囚われる。
頑張れなかったのはきっと、その思考の時間を使って別の努力をしていなかったからなのだろう。
そして、それでいいのかもしれない。
はたから見て無意味でも、僕が価値を感じているのならそれはそれでよいのである。
無意味に見える時間こそが、実は僕のパフォーマンスを押し上げてくれているのかもしれないし。
そうだそうだ、このブログだってそういうものではないか。
あまりにも虚無で無意味に見えるが、僕にとっては役に立ってくれているものの代表例である。
能力も思想も人によって違うのだから、お仕事の進め方だって人によって違ってもいいはずである。
まぁあまりにも怠惰に見えるとお給料にも影響が出るので、最低限の体裁は必要だが。
そこあたりのことは、損しない程度にベストを尽くそうと思う。
どのみち普通とは違う行き方をしてしまっているのだから、無理して非効率的な普通のやり方にこだわる必要もないだろう。
いやまぁ普通でないのは振る舞いだけで、成果はきちんと普通のものを仕上げるのだが。
無理に特別であろうとする必要も、ないのである。
つまりは無理をするのがよろしくないのだ。
僕は理を愛しているのだから、無理なことは憎むべきものだ。
そんな感じで、明日も無理しない範囲で頑張ろう。
今日の夕飯は鍋だ。
昨日も鍋だったが、美味いものはいくら食ってもいい。
雪も振ってきたし、身体を温めて寝て、朗らかな気持ちで週末の労働に励むとする。