飽きれて、でも諦められなくて
今年も楽しくお仕事してきた。(決めセリフ)
よし。
決めセリフも決まったので、今年のお仕事は無事に納められたはずである。
来年の僕に対する引き継ぎの文書も書いたので、年末年始の休暇後でもきちんとお仕事に取り掛かることができるはずだ。
とはいえたった十分程度のメモ書きの作業をしただけなのだが。
こういった細かい意識は、僕が明確に仕事人として劣っているという自覚から行っているものである。
つまりは、雑魚なりにパフォーマンスを上げるための下策にすぎない。
が、下策から始めて首尾を上げられるのなら、それはそれで悪くない。
賢い諦観よりも、愚かな邁進の方が愚者らしいというものである。
正しい思想が、いつも正しい答えを導くとは限らない。
正しい答えを導く思想が、いつも正しいとは限らない。
僕は、答えを求めることをやめた。
せめて、自分が正しいと思える思想をもって生きると決めた。
恥ずべきことは恥じ、改めるべきことを改め、それでも誇りたい自分を守ると、そう決めたのだ。
そんなわけで、愚鈍な仕事のこなし方をして、できない自分に飽きれつつも、それでも挑むのである。
飽くことと、諦めることは、似ているようで違う。
僕は、飽きれても、諦めないことを選んだのだ。
それは1度目を背けたことでもあるし、挫けかけたことでもある。
大学院から僕は逃げたし、就活では本当に呆れる程に飽きれるようなことをした。
それでも、こうして生きるために働いているのだから、諦めることは選択できなかったのだと思う。
そう信じたい。
それを信じられなければ、僕はこれからも何かを諦め続けてしまうような、そんな気がするからである。
きっと、誰かに対して飽きれてしまうことは、よくあることなのだと思う。
良いやつだと心の底から思っていても、見下し、価値を見いだせなくなってしまう時が来るのだと思う。
かつて僕が僕に対して抱いていたように、無価値と決めて遠ざけてしまうことが、今後たくさん起きるのだと、そう思う。
だからせめて、それを本心からしたいわけではないのだと、言い訳をしておくことにする。
そうすれば、本心から飽きれてしまうようなことを、僕は見直すことができるはずである。
誰から笑われる人生を歩もうとも、過去の僕にだけは、笑われたくないのだ。
そういう未来への言い訳を連ねて、愚かなりにも誠実に生きるのである。
賢くなくても、いいのだ。
そんなことを思った一年だった。
いやまだあと2日も残っているので、まだ一年を振り返るのは早いのかもしれないが。
まぁこのブログは相当に適当なことしか書かないので、真面目になれるときに真面目な記事を書いておくのが正しい考えと言えよう。
どうせ明日明後日など、実家に帰ってのんびりしてるから、雑に200文字程度しか書かないのだ。
きっとそうに違いない。
酒も入ったら、もう何も書くことなどないではないか。
言い訳を連ねて生きると言ったのだから、こうして言い訳をしていこう。
そして言い訳をした分だけ、せめて妥協しなかったところに対して誠実であろう。
そんなわけで、今日の記事はそこそこ真面目にポエムを綴ったわけである。
決してイヤホンを忘れて帰りの電車が暇だったら筆が乗ったとか、そういうことではないのだ。
うん。
きっとそうに違いないのだ。
ちょろっと漏らしたが、明日は実家に戻る。
戻ると言っても2時間程度で着くので、大した旅路でもない。
大した旅路でもないから、両親が隔週でおしかけてくるのだが。
そんなこんなで、少しずつ年末に向けて歩きだす所存である。
こんなブログを読んでいる暇人はどうせ年末年始も暇で関係ないのかもしれないが、もしかしたらこれがこのブログを見るのが今日で今年最後になる人がいるかもしれないので、一応言っておくとしよう。
良いお年を!
よし。
明日明後日もこれを擦れば締めの言葉で文字数を稼げるな。