イドのなんらか

TRPGしたりキャンプしたりするITエンジニアの人間が書く雑記

それでも誇りは必要だから

今日も楽しくお仕事してきた。

取引先の都合でなかなか酷い目にも遭ったが、楽しいと自分で定義したのなら、それも楽しみのひとつである。

 

どうやら、多くの人は誇りと責任が嫌いらしい。

潔さ、誠実さというものは、賢く生きる上では足かせになるようである。

 

嘘はつかれたやつの方が損をするし、真実を黙した方が得するケースもたくさんある。

高潔であることは、必ずしも幸福な平穏を約束しない。

 

自分のことを考えれば、不誠実でも身を引くことが正しい選択になる機会がやってくる。

困ったことに、そのたびに僕は、高潔さを損なうか、命を削るかの選択に迫られるのだ。

 

突き詰めると血を見ることになる話題は、存外に多い。

僕は誠実で、生真面目であり、そして未熟である。

 

未熟であるが故に、その手の理不尽に脆弱である。

理不尽に直面したとき、適応せず、向き合うタイプの性格であるから、それは不幸になるのだ。

 

高潔さ、誠実さ、誇りなどというものは、賢く生きる上では不要なものだ。

むしろ、率先して排除するべきことなのだ。

 

その点では、僕は愚かな生き方をしている。

不幸に身をやつす振る舞いをしているし、事実としてそうなっている。

 

それでも、僕はまだ誠実でありたいと思う。

仕事を楽しんでいるうちは、その誇りを忘れないようにしたいと願うのだ。

 

結局、僕はそれを失っては生きていけないのだ。

僕が僕として生きるために、誇りを失うことはできないのである。

 

賢く生きられないのは、多くの者にとって不幸である。

適応することは、多くの場合に幸福をもたらすだろう。

 

僕は、それでも不器用な生き方を選んだのだ。

僕が望んでそうなると決めたのだ。

だからこうしてここでこのようにお仕事をしているのだ。

 

その事実に、他の理由など要らない。

生きるために、誇りが必要だったのだ。

 

僕はまた、理不尽に相対する時がくるだろう。

だからこそ、せめてもの抵抗として、その理不尽を継承せぬようにと明日の僕に祈りを捧げるのである。

 

そんなことを思った1日だった。

 

楽しみ、頑張った果ての報いなら、喜んで学ぶことこそが誠実な在り方というものだ。

そのようにして、明日も頑張ることを楽しいと思える範囲で頑張ろう。