愛を感じた
今日も楽しく年始の休暇を満喫してきた.
夕方ごろに実家を出て,今はすでに新居に戻ってきている.
実家にはもうPCをおいていないので,こうして自室でPCを動かせるのが幸せである.
3日も触っていないと,だいぶ手が寂しい感じが出てきていた.
別に動画見たりブログ書いたり何だりはスマホでできるのだが,やはり据え置きのコンピュータには勝てない.
画面数が多いし,そもそもの画面サイズが違いすぎる.
使えるインターフェースも多彩だし,圧倒的に便利に使える.
大型で,大電力であることは,大体の問題を解決してくれる.
それでも小型軽量だからスマホが普及しているのだが.
要は適材適所ということである.
そして僕の娯楽の多くは,PCを求めているということである.
こういうときに,モバイルPCがあればなぁと思わずには居られない.
今買う必要はないのだが,あればいいのになぁというシーンはそこそこにあるのである.
まぁお仕事が始まれば,この手の物欲は薄れるのかもしれない.
買うのは,もう少しお金を稼いでからでもいいだろう.
良いガジェット,良い端末というのは,まぁ高級車を買いたいのとそんなに本質的な意味合いは変わらない.
所有者に格が伴わない内に手に入れても,あまりいいことはないのかもしれない.
いやまぁ別に高級車と違って明確に実用性があるのだから,必要になったら買えばいいのだが.
さて,実家にいたとき,母が読んでいた本をいくつか読む機会があった.
子供向けのレシピとか,野菜嫌いの克服の仕方とか,お弁当の本とか,いろいろがあった.
僕は相当に家事ができる人間である.
母から多くのことを学んだ結果,そういうことができるようになった.
母は元から,料理が得意な人間なのだと思っていた.
事実としてご飯は美味いし,栄養バランスを考えた丁寧なものを毎回作っていた.
母親とはそういうものであると,そう認識して育ってきた.
だから,母がこういう本を読んでいたことを知ったのは,今日が初めてである.
最初から全部ができる人間ではなく,10,20の本を読み,学び,試行錯誤をして僕たちを育ててくれていたことを,今日始めて知ったのだ.
つくづく,愛されて育ったものだと思う.
それに終ぞ気づくことがなかったのだから,驚きを越して自分に呆れてもしまう.
秘匿することが良いことだとは言わないが,努力による愛というものは,気づかないものである.
そうした大人の振る舞いで,僕はこうして生きることができている.
僕もそのように人を想うことが出来たらと,思わずには居られない.
その血と教えが流れているのならば,その高潔さに準じて生きよう.
そんなことを思った1日だった.
明日も休暇で,明後日からお仕事が始まる.
しっかりと休んで,立派にお仕事を初めることができるよう,楽しむ所存である.