甘いことは良いことである特に生クリーム的な甘さは人を幸福にする
今日も楽しくお仕事してきた。
宣言通りに業務8勉強2くらいの割合でお仕事してきた。
やることを明確にし、やると宣言することは、とても良いことだ。
実際にその責任を果たせなくても、責任を果たそうとする姿勢を持つことは、事態を好転させる。
コミットメントを表明することは、必ずしも成果を保証しない。
人間にはできることよりも、できないことの方がはるかに大きい。
失敗は平等であるし、起きたことを覆す力は、残念ながら僕達には与えられていない。
いやもしかしたら時渡りができないのは僕だけで、もしかしたらみんなは知らないうちに過去を変えているのかもしれないけれど。
少なくとも、僕は失敗を覆す方法を知らないし、その力もないということである。
起きたことは、ただただ受け入れねばならない。
そんなわけで、責任を果たすことを表明することは、大きなリスクのようにも見える。
失敗したら責任は僕にあると、そう宣言すること他ならないからだ。
しかしこれをしてみると、思いの外悪くない。
やると決めてやるのだから、自分の言葉で自分を縛れるわけである。
僕は他の誰よりも、僕のことが好きだ。
少なくとも、そういう相手を見つけられていないのだからそれが真実だ。
そんな僕が自分に向けて決めたのなら、言い訳できるくらいには物事をなさねばならない。
そういう呪いをもって、何かを成すのである。
やるきっかけがあるのは、とてもありがたいことだ。
やらないことの方がコストが低いし、やらない言い訳を並べるのは難しいことではない。
しかし、失敗は平等である。
やってもやらなくても、失敗は平等に降りかかる。
その選択の埋め合わせは、いずれ現実によって行われる。
向き合わねば、逃げ続けなければならない。
そんなわけで、とりあえずやるというのはやはり万事に効く薬なのである。
やる気が逸ってやらかしたりもするけれど。
結局の所、他者が定義する責任など、その実体はどこにもないのだ。
僕が死んで消滅する責任なら、そんなものは無価値である。
なら、せめて自分の心にだけは責任を果たしたいのだ。
僕は誠実であったと、そう満足して失敗したいのだ。
そういう吹っ切れは、仕事に良い影響を与えてくれている気がする。
究極、僕がやらなくても現場は回る。
僕よりもはるかに有能な人がたくさんいるし、僕はその人たちのリソースを間借りして業務をこなしているに過ぎない。
それでも、いつかはそれが終わる日が来るだろう。
そのときに、僕は過去の僕を誇りたいのだ。
と、なんかポエムを書いただけの記事になってしまった。
まぁいつものことである。
自己陶酔に励み、明日の燃料とするのだ。
そのようにして、立派に生きたと宣言するのである。