楽しく記事を書きたいのでそうしたという話
脳が働かないと身体が動いてくれないかなしみ
なんか最近自分が発する言葉にキレがなく感じる.
日常の所作はまぁ普通にできるし,メール応対とかそういうのも普通にできている.
ブログの記事を書いたり,なにか気の利いた「言葉」を出力しようとすると,言葉にできないような強い不快感を覚えるのだ.
おそらく就活周りで感情の言語化を激しく行ったためだろう.
言語野かどっかが若干焼ききれてるのかもしれない.
人間の体は科学的に機能している以上,その縛りからは逃れることができない.
脳科学だってそうで,言語野が働かないなら言語にまつわるインプットアウトプットができないのも自然と言える.
まぁこれは一般論であって,僕がここで語っているそれはブログの記事を真面目に書かなかったことへの言い訳なのだが.
文字を打つのは簡単だが,言葉を生み出すのは意外と大変な行為だ.
世の中にあふれている「言葉」を観測すると,多くがただの「文字」であることに気がつく.
もしくは「音」であって,それらは「言葉」ではない.
コミュニケーションツールとして用いられる「記号」に過ぎず,意味を纏ってそこにあるなにかでは決してない.
記号を扱うのは,簡単だ.
何気なしに出力している記号は,意識的に生み出される言葉の数よりも遥かに多い.
多くの会話はシンボリックで,意味よりも機能としてのコミュニケーションである.
僕はコミュニケーションそのものに意味を求めるきらいがある.
一期一会という記号は嫌いだが,一期一会という言葉は好きなのだ.
動的に過ぎ去っていく刹那であるが故に,その時その場所で交わされた言葉は,ただそれだけで特別なのだ.
さて,ここまで語るとここ最近の僕の記事のキレのなさがわかってくる.
あれらは記号であって,言葉ではない.
刹那の中にある言葉を文章にしていないのだから,当然である.
僕は理系の人間で情報系の出で,論理についてまぁまぁの知見も適正もある.
しかし僕が愛していたのは言葉であって,その背後にある世界そのものだった.
ここ数日が空虚だったのも,それに触れていないからだったのかもしれない.
意味のある体験に触れる
さて,こんな記事を書くことになったのは,いつも僕の就活を気遣ってくれる友人からガチ目の心配をされたからである.
最近ブログのキレがないキレがない内容がない内容がないって喚いている僕を嘆き,色々とアドバイスを貰ったのだ.
いわく,アウトプットが出てこないのはインプットの量が圧倒的に足りてないかららしい.
確かに最近は自己の内面を見つめるばかりで,何かに触れたり取り入れたりする体験をあまりしていなかった.
映像でも文学でも音楽でも,とにかくインプットに没頭する時間があったほうが良いらしい.
おすすめの漫画も紹介された.
ヤツがおすすめするのだから,ホンモノであるのは疑いようのない真実だろう.
ただまぁ,記事にするために,アウトプットするためにコンテンツに触れるというのも癪に障る行為だ.
コンテンツとはそれそのものに価値があるのであって,そこから得たものがすべてというわけではない.
……と,僕はそう考えている.
だから自己再生のためにコンテンツを消化するのは,なんというか気がひける.
僕は世界に触れてそこに真実を見出し,現実と幻想を融合させるためにこそ,そのコンテンツに入り浸るのである.
現実のために幻想を用いたいと思ったことはない.
入り浸った結果の副産物として,現実の僕を改変するというのが幻想が持つ力であるからだ.
だからまぁなんというか,アウトプットのためのインプットというのは,僕のちっぽけなプライドがそれを拒否しようとするのである.
どうせなら入り浸るためにインプットをしたいし,その排泄物として僕の自己満足のためになにかアウトプットがあればいいなと,そう考えてしまう次第なのだ.
結局作品自慢なんて全部自慰行為でしかないし,それを語る行いにも大した価値などない.
それでも,無価値だったとしても,それでも僕には意味のある行いだ.
多くの人にとっては記号であったとしても,僕にとってはそれが世界の一端を垣間見るための言葉で,そこに真実があるのだ.
語るために触れるという行為は,すでに行っている.
東方シリーズにしたってそうで,10年以上もアンチ活動を続けてもなお面白がってやってるヤツがいるのだから,彼とコミュニケーションを取るために触れた側面がある.
触りはそれでも,やってると魅了されたという経験は,当たり前だが星の数ほどある.
だからコンテンツに触るための入り口は多くたって良いのだろう.
アウトプットのために触れたものであっても,そこに浸り,得たものがあるのなら,きっとそれはただの消費ではないのだと信じたい.
長々と心情について書いたが,ざっくりいうと「空虚さに対して漫画を処方されたので読んでみるかぁ」という内容である.
たったそれだけの言葉を生み出すために,僕は2000文字の記号を綴った.
ならばこれは言葉なのだろう.
僕にとっては意味がある以上,それはなさねばならない.
僕の思想に基づいて答えが出たのなら,あとは実行するのだ.
楽しいものは楽しい
なんだかんだで書こうと思えば記事は書けるものである.
これも友人からの喝というインプットがあったからなのだろうか.
死んだ目で日々を送るより,こっちのほうが自分らしくて好きだ.
なにより,この記事を書いている時の自分は執筆作業を楽しめていた.
言葉というものは偉大だなと,つくづく思う.
彼には感謝の言葉をうまく伝えることができなかった.
今でもその言葉をひねり出すのは大変な行為だ.
「心配してくれてありがとう」「その漫画読んでみるよ」
たったこれだけの言葉を口にするにも,僕は常人の数倍以上の時間を要してしまう.
記号のままにしないために,言葉にするために,そういう真実にこだわるために,僕はどれだけ多くのものを切り捨ててきたのだろうか.
そうして削いで削いで削ぎ落として残ったのが,僕という個人なのだろうか.
結局のところ,僕はそこに答えを見いだせてはいない.
それでもこの思想を大事にしたいという僕の気持ちは,紛れもなく真実だ.
それは空想にある思想で,現実に根ざしていないのだとわかっていても,捨てきれない僕の青さだ.
いずれ人間は,現実と幻想の融合を果たす.
テクノロジーの発展により,幻想と現実の境は日に日に曖昧になってきている.
幻想に生きる僕にとっては,現実こそが幻想だ.
だが生命活動とは現実の肉体によって行われているもので,そこから離れて生きることは,少なくとも今の技術ではできない.
脳と心臓と肉体のトリニティで,僕は活動している.
現実に生きるために何かをしなければ,僕は幻想に生きることすらできなくなる.
思考体として生きることができればどれだけいいかと思うときが,よくある.
空想を信奉し,その中に生きることができるならば,僕は何者にでもなれる.
そしてそういう結論に達するたび,その空虚さに辟易して現実を直視する.
手に入らないものだからこそ,美しいものはたくさんのだということを,僕は良く知っている.
そういうものを含めて,結局の所は気の持ちようなのだろう.
コンテンツを消費したくないと言ったところで,どこかで何かを消費して生きているわけだし,目的なく何かに触れたいと言っても,本当は何かしらの縁があってそこに立っているわけである.
比率に偏りがあって,僕の場合はそれが極端すぎるというだけなのだ.
そのエゴイズムに気づき辟易とするか,受け入れ前に進むかという選択こそ,生を豊かにするか貧しくするかの境目なのだ.
脳を正しく休める
さて,昨日の睡眠はさんざんな評価であった.
入眠が遅いだの,熟睡時間が短いだの,結構微妙な状態にあった.
今日の睡眠も,それほど良い評価ではなかった.
熟睡時間はちょっと良くなったようだが,睡眠の質は変わらず良くない.
人間の生命活動は脳に依存している以上,脳の都合に合わせて生きなければならない.
睡眠というものもまた脳のエゴイズムに付きあうためのものであり,よろしくしていかないと現実の僕が辛い目を見ることになる.
熟睡時間を改善するには,Xiaomiのフィットネスアプリいわく
「過度な疲労は避け,良い気分を保ち,仕事と休息のバランスをとり,積極的に運動し,健康な身体を維持しろ」
ということらしい.
確かにどれもできてないなと思うので,その部分の評価が低いのも妥当だろう.
就寝前に義務感に駆られ,焦ってブログを書くのも精神衛生に良くなかった.
日記は日記なんだから,クソみたいな内容ならそれはそれでいいのだ.
ぼくのなつやすみでも
「今日は特に何もない 素晴らしい一日だった」
をどれだけ書き込めるかのチャレンジをしたことがあった.
何もない一日だったのなら,飾らずにそれを書けば良いのだ.
大勢の人にとって価値がなくても,僕にとって意味があればそれでいい.
100人に理解されなくても,1人が興味を持ってくれればいい.
誰も興味を示さなくても,僕はそれでかまわない.
そうして生きてきたし,これからもそう生きていく.
だからこの日記も,そのために書く.
……と,言い訳をつらつら書いていたら,ちょっとは気が晴れた.
まぁ良くも無意味な記号を綴ったもんだと思っていたが,こうして意味を後付けすることだってできる.
PVが3もつかないゴミのような記事でも,そして本当に価値のないものでも,そこに意味を求めることはできるのだ.
事実僕はそれをしてきた.
クラスメートの誰もがやらないし興味も示さないニッチな遊びを,兄弟が馬鹿にしてくるようなクソゲーを,僕は小さいときからやっていた.
そしてそれを愛している人は,僕の他にも確かにいるのだ.
僕もそういう存在でありたいと思う.
その他大勢にとっては無価値でも,それを求める誰かのためには意味のある存在でありたいと,そう思う.
存在を維持するために,現実を生きるのだ.
生きるのにそれ以上の目的は要らない.
生きるために食うべきであり,食うために生きるべきではない.
なんか話がすごい勢いで脱線したが,ようはこのブログもそうした意味をもったものであり,それで睡眠時間を削ったり嫌な思いをするのも馬鹿だなということだ.
くだらない一日だったら,それを3行程度書いてさっさと寝たほうがマシなのだ.
きっと研究室時代の僕もまた,その程度のものなのだろう.
僕は未だに,あの日々に対して負のレッテルを張り,引け目を感じ続けている.
そこで得られたものもあるし,失ったものもある.
それは間違いない事実だ.
就活の面接で今を説明するために研究室での出来事を話すのは,なるほど確かに必要なプロセスだ.
だからといって,それを原因にして今も何かを失い続けているのは,僕の愚かさなのだ.
過去を受け止め,そこに意味を見出し,糧とするか毒とするかは,個人の選択次第でしかない.
僕は,研究室で多くのものを失った.
でも,その結果今の僕に出会えた.
価値で言えば大学院を修了した自分のほうが,間違いなく高かっただろう.
それでも今の僕には,IFの僕にはない意味がある.
ハッピーエンドじゃなくたって,僕はそれを楽しめる器量がある.
そう思えたのだから,少しは気分がよくなった.
これで今日の夜は良く眠れるはずである.
そうじゃなかったら,多分mi band 5が壊れているか気温の変化で寝苦しいだけに違いない.
うん.きっとそうだ.
今日の夕飯は餃子で,いつものように100枚程度は包むことになる.
今が子供かどうかはさておいて,子供の頃からずっと同じ味で餃子を作ってきた.
最初は5枚程度を包んで終わりだったのが,やがて5人で1/5ずつ包むようになり,今では全行程を一貫して自分だけでやりきることができる.
やっていくうちに慣れて,より早く,より正確に,より美味しく.
そのようにして,僕は成長した.
多くの物事も同じなのだ.
僕は餃子を食うために皮を包んでいたが,今はそれを楽しむために料理をしている.
入り口は,どこだって構わないのだ.
楽しめる器量があるかどうかが,僕にとって重要な意味を持っているだけなのだ.
そんなこんなで,今日の残り時間も楽しもうと思う.
そうして楽しみ,飯を食い,あとはLJLでも見ながら明日を迎えるのである.
明日といえば,1件面談がある.
このブログで度々口に出している,面談が楽しい企業である.
いつもどおりの自分で,飾らず,真実だけを語り,それを言葉にしよう.
よし.
今日はこのあたりで締める.
ここ最近の中ではマトモな記事になった.
読まれるかは知らんが,今日はこれを満足に思い,気持ちよく寝てやるのだ.