イドのなんらか

TRPGしたりキャンプしたりするITエンジニアの人間が書く雑記

ハードウェアの障害だなんて聞いてませんw

今週も楽しくお仕事してきた。

今週末までの目標タスクはこなしたし、講師役のお仕事もひいこら言いながらなんとか遂行した。

 

新米なりに、よくやれていると思う。

ちょっと先走りすぎる嫌いがあるのは、自分でもよく感じるところだ。

 

それでも前のめりな姿勢でいることは、悪いことではないとも感じている。

少なくとも誠意は伝わっているはずだし、それが結果を呼び寄せているのだから、これは武器になり得るものだ。

 

そういえば業務に使っているコンピュータのWifiアダプタの動作がおかしくなったりもした。

ハードウェアレベルの不具合な様子で、困ったことになっている。

 

まぁ壊れるのは仕方ないのだが、ドライバの再インストールやらなんやらで結構な手間がかかっている。

テスト実施中にネットワークから切断されたときは泣きたくなった。

 

それでもきちんと業務を遂行したのだから、アドリブ力はそこそこにあると言えるはずだ。

こういう底力は、なんだかんだで昔からWindowsを使ってきたという経験から湧いてきているのだろう。

 

なにごとも、無駄にならないものである。

破壊の経験は、創造の役に立つのだ。

 

そんなことを思った1日だった。

 

明日はお休みだ。

振り返るとあっという間であるが、今週はその中にしては長く感じた。

 

知っていることの反復は、そういう性質を持つのかもしれない。

まぁ今は楽しいので良しとしよう。

お前は恥ずかしいやつなんだから恥ずかしがるな

今日も楽しくお仕事してきた。

いろいろとつまみ食いみたいな進捗だが、確実に前に進んでいる。

 

その歩みは順調かと言われると、少し遅いかなと思うけれど。

プロジェクト憲章というものは大事だなと思う今日このごろである。

 

フレームワークの類を使うか使わないか問題は、仕事で直面するのは厄介極まりない。

使うにしても使わないにしても意思決定のフローに従う必要があるし、すぐに開発に着手というのが難しくなっていく。

 

個人開発であればこんなことは考えなくていいのだが、自分が誰かのために決めるというのはなかなかどうして気を遣う作業だ。

そういう部分で、僕のコミュ障が悪さをしている。

 

外部仕様で全部決めてくれよと思いつつ、プロジェクトのリソースと時間は限られているのだから、問題を認識した上で受け入れる必要もある。

完璧主義とは、つくづく厄介な病気である。

 

柔軟さと機動性の大切さはよく知っているのだが、自分が当事者になると見失いがちだ。

今日こうして振り返らなければ、僕は行き先を間違え続けていたのかもしれない。

 

うまく行っていないことを表明することは、時として成果を誇ることよりも大きな利益を生む。

であるならば、明日はそれを成す日であろう。

 

凡庸でないことの証明のためにも、普通のことを成すのである。

 

その傲りを、誇りに変えて

今日も楽しくお仕事してきた。

多くのことを成して、多くのことを成せなかった。

 

できないことは、できることよりも遥かに大きい。

無力を味わいながら、僕は日々を送っている。

 

それでも挫けずにいられるのは、誰かの役に立っているという実感があるからなのだろう。

無力だが、無能ではないのだ。

 

さて、感謝というものはすばらしく平穏をもたらす、世にも素晴らしき概念だが、同時に傲りを引き寄せもする。

僕はこんなに未熟なのに、感謝される立場にいる。

 

恐ろしいのだ。

この程度で良いのかと。

 

ひねくれていることは解っているし、その結末も知っている。

ようは不完全な僕に感謝してくる他人が嫌いだという、果てしなく傲慢な感情なのだ、これは。

 

ふざけた考え方である。

僕はいつ、僕を救うことができるのだろうか。

 

いつか成るのではなく、いま成らねば。

時は遡れないが、辿ることだけを許している。

 

取りこぼしたものは、もう二度と手に入らない。

泣いてばかりの人生だったような気がする。

 

それは僕が辿ることを拒否したからで、だから弱い自分がすべてのように感じているだけなのかもしれない。

忘れてしまったものの中に、何か大切なものがあるのかもしれない。

 

経験と事実だけが、今の僕を形作っているように思う時がある。

記憶力というものがないと己を規定することで、目をそらしているのかもしれない。

 

そんなことを思って帰宅した。

ようは、暇なのだ。

 

考えられるだけの余裕があるから、それを不安に思うのである。

その証拠に、自宅に着くと心は別の娯楽を求め始める。

 

今日はエルデンリングをしない日と決めている。

あれをやると、眠れなくなるのである。

 

理性は真に人らしいことなのだから、それを証明するのだ。

足掻き、労働、勤しみ、目覚めよ!

今日も楽しくお仕事してきた。

調査もテストも設計も開発もドキュメント整備も全部したのでとても疲れたが、全部やるというのはなかなかに面白いものである。

 

ワインバーグ大先生の言葉の通り、ジャムは広く塗ると薄くなっていく。

広く触ることはしているが、味が薄れている懸念は感じる。

 

言語化という能力においては、僕はなかなかに適正があるらしい。

その手のお仕事を任せられることも多いし、むしろ率先して引き受けてもいる。

 

コーディングのお仕事も出てきたので、リソースの割り振りは考えていく必要はあるだろう。

ドキュメンテーションはジャムなのだから、薄まるのだ。

 

しかし就職してからこんなに早くAndroidアプリに触るとは思わなかった。

web系になるのかぁってぼんやりと思っていたが、思わぬところで学びが役に立つものである。

 

積み上げることでしか、人は高みに至ることはできない。

空には憧れるが、羽はないのだ。

少なくとも僕には。

 

呪いも祝福も、見え方が異なるだけなのかもしれない。

必死こいて足掻いた昨日は、今日の幸福をみちびいてくれている。

 

明日も、そのようになるだろう。

 

やればできる男

今日も楽しくお仕事してきた。

いや長い会議体で話を聞いていただけなので楽しいかどうかはさておきなのだが、まぁ総合では楽しいと言えるだろうから楽しくお仕事してきたということにする。

 

さて、僕もそろそろ試用期間を終えて、正社員になることとなった。

いや正式な辞令の執行日は再来週あたりだが、雇い主から通達があったのだ。

 

これで僕も晴れてニート完全脱却である。

思えば去年の今頃は大学院大学の手続きと、いつ終わるとも知れない就活への不安で心身ともにボロボロであった。

 

友人たちに支えられて活動を続けていたのがここ一年以内の話だというのが嘘に感じられるほどには、僕は社会人になってしまった。

気がつくとあっという間である。

 

引っ越してから、もう随分と経ったような気もする。

しかし、僕の心はまだ実家の住まいにあるような気もする。

 

心というものは妙なものだ。

痛みも悲しみも喜びも、なんでも感じられてしまうのだ。

 

激動な一年だったように思う。

何かに抗うように、僕はこの一年を過ごしていた気がする。

 

その足跡はこうしてネットの片隅に記されているのだから、僕もそれを読み返す必要がある。

就活の記憶などほとんど埋没してしまったが、それは確かな歴史としてそこにあったもののはずだ。

 

そしてその歴史を血肉とすると宣言したのだから、やはり失ってはならないことなのだろう。

思い出すために綴るのも、それはそれで有益というものだ。

 

真面目に正社員になるのだから、僕の就活の足跡をまとめた記事を書かねばならない。

既卒ニートが正社員になるまで的なタイトルで、恐らくはこの記事を読まないであろう僕のような人のために、何かを遺すのだ。

 

自分の力で生きるのは、なかなかに大変だ。

それでも、僕は今が心地よい。

 

忘れないように、噛み締めて生きよう。

この先、手抜きがあるぞ。

今日も楽しく休日を謳歌した。

エルデンリングをやって、その後エルデンリングをやって、エルデンリングをやった1日だった。

 

NPCイベントも結構こなしてきていると思う。

所々に火のない世界への造詣が感じられたり、新しい発見が多いので飽きが来ないゲームである。

 

兄弟間で情報交換をしたりもした。

Wikiとか攻略サイトとか攻略動画とかいろいろなノイズが多い時代であるが、口頭であーでもないこーでもないと言い合うのは素直に楽しいものだ。

 

攻略本しかり攻略サイトしかり、元はそういうコミュニティの楽しさが源流にあるものが、効率と消費のためだけのものに成り下がったのは、悲しいことなのだろう。

手探りの楽しさは忘れたくないものである。

 

今日はこのあともエルデンリングをするので、記事はこれで締める。

エルデンリング万歳!

幸せの容量

今日は楽しい休日だった。

昨日の夜に兄がこちらにやってきてお泊り会をしたりもした。

そして夕方には両親もお邪魔してきて、一家大集合となった。

 

エルデンリングやってエルデンリング見てエルデンリングやってエルデンリング見て昼飯食ってエルデンリングやってエルデンリングみてエルデンリングやって夕飯食ってエルデンリングやってみたいな感じの1日だった。

 

夕飯はすき焼きだった。

いい肉を使ったが、腹が膨れすぎてもう動けない。

 

一口目の旨さをずっと味わえればいいのだが、残念ながら満腹中枢は食事の味を落とすし、胃に入る物理的な容積も限りがある。

幸せは、その全てを手にすることができない。

 

こぼれ落ちていく幸福を見て悲しい気持ちになるのは、やはり傲慢なことなのだろう。

こぼれ落ちるだけの幸福が、僕の手の中にはすでにあるのだ。

 

幸せであることに苦痛を感じるのなら、それは真実、傲慢なのだ。

ならば、僕はその幸福に感謝するべきなのだ。

 

そして落とした幸せの分だけ、誰かに幸福を分け与えるのだ。

傲慢であるのなら、僕はせめてそのエゴイズムに誇りを持ちたい。

 

そんなことを思った1日だった。

 

さて、エルデの王となるべくまた励むことにしよう。