誰か僕と孤独を共有してください
ニートは楽である
ニート生活を一年半ほど続けて見た結果,わかったことがある.
それは表題の通り,楽であるということだ.
僕を縛る何者かが存在しないので,とにかく楽である.
国公立大の休学ニートの場合,年金の納付義務からも逃げることができるため,特に縛りがゆるくなる.
少なくとも1年の間は,完全なモラトリアムを享受することができるのだ.
人間関係は生きる上で欠かせないものであるが,重すぎると潰れてしまう.
適度に人間関係を間引かなければ,情報量の多さに耐えることはできない.
とりわけ僕は,集団が苦手なタイプの人間であった.
2~10人程度の共同生活や共同作業は難なくこなせるし,むしろ得意とする事柄であるとも言える.
しかしそれ以上の規模のコミュニティで同調して生きるのは,僕にとって非常に困難なことでもあった.
肥大化したコミュニティは,一つの意思を持ちたがろうとする.
それは明示的されることもあれば,暗黙的なこともある.
自分が作ったコミュニティですら,人が増えればやがて意思を持ち始める.
性悪説に基づいて,コミュニティの住人の何割かに,望まれない人格の持ち主が現れ始める.
働きアリの法則的に,そういう輩は必ず現れる.
クローズドなコミュニティであっても,数が増えればそうした人間は自然発生する.
そしてその悪性因子が,僕である場合さえあり得るのだ.
コミュニティの意思は,そうした悪性因子からコミュニティそのものを守るように作用する.
ガイドラインのように明記されるものであったり,同調圧力のように暗黙の了解として成立するものある.
そのようにして,コミュニティは自然発生的に自己防衛機構を生み出そうとする.
そうしたコミュニティの意思は,しばしば僕の心理的安全性を脅かす.
肥大化した組織は,時に誰かを嫌うよう,僕に要請してくる.
そして誰かに好かれるよう,僕に偽れと囁いてくる.
もしくは僕を排除する動きをみせることだって,ときにはあるのだ.
人間関係を維持するために作られたはずのコミュニティが,いつのまにかコミュニティを守るために人間関係をないがしろにする仕組みへと変わっていく.
仕組みのアップデートは,参加者の合意によってなされるべきである.
しかしてコミュニティには悪性因子が潜んでいるので,アップデートのたびにコミュニティは醜悪な特性を帯びるようになる.
結果として,コミュニティは腐る.
生物が寿命によって朽ちていくように,コミュニティもまた死んでいくのだ.
10人のことを深く知るのはその気になれば簡単だが,それが20人ともなるとそう容易ではない.
100人規模になったら,人間関係を管理するためには何らかのシステムの利用が欠かせなくなる.
そのシステムこそが法であり,すなわちコミュニティの意思である.
困ったことにコミュニティは腐っていくので,100人との人間関係を維持するには,相当にコミュニティの意思を強固に保たなければならない.
つまりは人間関係に専念せず,コミュニティのために生きなければならない.
さらに困ったことに,人間関係とはアップデートされるものでもある.
どれだけ深く知り合っていても,時間の流れとともに既知の人間は未知の存在へと移り変わっていく.
その都度自分の認識を更新しなければ,優れた人間関係を築こうとも,それを維持することはかなわない.
僕が一度に持つことができる人間関係は,せいぜいが15人前後なのだと思う.
このキャパシティは僕の実測的な限界値であって,おそらくトレーニングを積めばそこそこに拡張可能であると思われる.
それでも,今の僕はその程度の数の関係しか作り上げることができないし,維持することもできない.
だからこそ性善説に従って生きるのは,大変に心地が良いものである.
適度な依存関係と,適度な信頼関係,そして適度な無関心が,自分の心理的安全性を担保してくれる.
それは法で縛られる関係ではなく,互いのリスペクトを前提とした関係の上に生まれるものであるからだ.
僕は性善説に従って生きたいので,コミュニティを広くしたいとは思わない.
そして大きなコミュニティに属したいとも思わない.
コミュニティは同意によって運用されるべきものである.
それによって初めて,僕たちは協同して何かを成すことができる.
コミュニティとは,組織のために個人が参画するもののことを意味しないのだ.
ニートになってからというもの,僕はゆるいコミュニティの中で生きることができるようになった.
同意なき強制を,自らが買って出る必要がなくなったのである.
何が言いたいかというと,ニートというのは人間関係的に自由で,楽なものであるということなのだ.
ニートは孤独である
コミュニティコミュニティと言いまくったせいで,いい加減にコミュニティがゲシュタルト崩壊を起こしかけてきているので,そろそろ別の話題に移ろうと思う.
ニートであることにはデメリットも存在する.
それは孤独であるということだ.
大きなコミュニティに属さないのだから,人間関係の絶対数は基本的に減少する.
喋らなくて良くなる反面,喋る機会もまた失われるのである.
孤独に耐えることは,物理的にも精神的にも難しい.
関わり合いの中で生きることをやめるのなら,それは世捨て人というものだろう.
ちなみに原義的な意味でのアウトローとは,まさにそういう人間のことを指す言葉だ.
僕は真なる意味でのアウトローではない.
どれだけゆるくとも関わり合いの中で生きなければ,生命活動を維持するだけの食事も,明日を生きるための悦楽も得ることができない.
孤独であることは,結構なデメリットなのだ.
困ったことに人間関係は換えが効かないので,孤独であることは生きる上での明確かつ重大なリスクとなり得る.
コミュニティを抜けるという決断は,並大抵のことではない.
僕は今でも,大学院から逃げたことに引け目を感じている.
共同研究室を含めても,たかだか20人程度の,小さなコミュニティだった.
尊敬する先輩もいたし,後輩もみんな誠実で,悪い人間などいなかったと思う.
みんないい人だったし,一緒にいることで多くの良い感情を得ることができていた.
それでも,僕はコミュニティというシステムの中で押し潰れた.
誰も僕のことを嫌いにならなくても,コミュニティが僕を押し潰すことを求めたのだ.
対等である者がいなかったことも,きっと大きな要因だったのだと思う.
僕はたまたま負荷の高いポジションにいて,そしてたまたま僕にはその負荷を受け止めるだけのキャパシティがなかったのだ.
僕は大学院の中で,孤独だったのだと思う.
僕は孤独を解消する試みを実行に移すことができなかった.
研究室というコミュニティに向き合うことを恐れたのだ.
大学院から逃げた後も僕の孤独は,今でも続いている.
ニートが孤独から逃れる術を持つのは,難しいことなのだ.
意外とみんなも孤独である
何かを成すとき,人はみな孤独である.
誰かの孤独を共有しようとしても,その孤独を推し測ることは極めて困難であるし,ひどく冒涜的な行為でもある.
だからこそ孤独を知る者に,僕は強く惹かれてしまうのだ.
昨日会った彼もまた,孤独に対して強い危機感を抱いていた者の一人だ.
その前に先週会った彼も,今ある関係がいずれ崩れて孤独になるのではないかと,そういう不安を口にしていた.
孤独には,2つの種類があるのだと思う.
それはふれあいの減少という物理的な孤独と,何かを信頼できなくなるという精神的な孤独だ.
仕事しない漫画家のアニメ的に言うと,街の人混みの中で一人ぼっちなのと,果てなき草原で一人ぼっちなのと,どっちが孤独なのかという命題だ.
おそらく僕は,前者の方が泣きたくなる場所なのだと思う.
2つ○をつけられないので,まだちょっぴり大人にはなり切れていない.
深刻度で言えば,精神的な孤独の方が重たいものであると,僕は認識している.
空想上にある孤独は,幻想であるが故に無限大に肥大化していく.
そのようにして肥大化した精神的孤独は,人一人が背負うには余りにも重すぎる代物である.
おまけに信頼関係の欠如による孤独は,時間によって解決されることがない.
むしろコミュニティの陳腐化に伴って,その孤独は加速度的に大きくなっていく.
そして精神的孤独は,外的要因によってすぐさま肥大化することさえある.
精神的に孤独にさせようとする情報はインターネット上に腐るほど溢れている.
孤独であることへの忌避感と嫌悪感を煽ることで,精神的な孤独はいとも簡単に肥えて育っていく.
物理的な孤独は即座に深刻な問題を誘発させないが,やがて精神的な孤独を生み出し続けていく.
そして立ち回りでなんとかなるのは,主に物理的な孤独の解消だけだ.
精神的な孤独は,自分一人の力で拭い去ることができない.
自己啓発本だのセミナーだのキャリア講座だのなんだの,そういった典型に当てはめられた言葉では,癒やすことができない.
花粉症とかのアレルギーと同じで,蓄積した精神的孤独を取り除く術はないのだ.
孤独へのキャパシティは,人によって違うのだと思う.
とりわけ僕はセンシティブだったので,すぐに孤独に苛まれたし,押し潰れされた.
僕よりも重たい孤独に苛まれていても,孤独の中で戦っている人はたくさんいる.
要は,僕は孤独のマネジメントが下手くそだったのである.
自分で敷いたレールの上を歩く際に,一生感じ続けることになるのが孤独感だ.
自我を持って生きている人間は,それぞれに自分だけの孤独を感じているのだ.
だからせめて他者の孤独を知ることで,自分の孤独を許せるようになりたいと思う.
きっと精神的な孤独をごまかす方法は,その程度の悪あがきしかないのだ.
人は増えるし,群れるし,それを良しとしたがる.
孤独の中では生きれないのだから,それは生物として誇るべき,正しい欲求だ.
しかしコミュニティが発達してくると,どういうわけか人間はその中で孤独感を覚えてしまう生き物らしい.
物理的に群れていても,僕たちは孤独である.
悲しいかな,孤独とは,避けようのないものであるようなのだ.
ところで,辞書的な意味によると「孤独」の対義語は「連帯」であるらしい.
他にも「団結」とか「一体感」とか,そういう言葉で孤独と反対にある意味を見出そうする動きが,国語の世界とやらにはあるようである.
「連帯」「団結」「一体感」
どれも,「孤独」より嫌いな言葉だ.
僕は連帯や団結,一体感を謳う集団の中で,いつも孤独を感じていた.
それを求め合わなかった関係の中でのみ,僕は信頼というものを手に入れることができていたのだと思う.
「孤独」の対義語を定めることはおそらく不可能に近いが,あえて語るのなら,僕はそれが「信頼」なのだと思う.
いや,僕の場合は「信頼」が「孤独」と対になっていただけなのかもしれない.
孤独の有り様は人によって違うのだから,普遍的原義を定めることなど,多分できやしないのだ.
僕の孤独感を誤魔化してくれたのは,Discordサーバーに集まっていた高専の同期のコミュニティであった.
TRPGやりたいってTwitterで叫んだら,なんか反応してくれた聖人がいたのでそこに参加した.
彼らとは,基本的にゲームしかしなかった.
たまに真面目っぽい話をすることもあったが,97%くらいはゲームかそれに準ずる娯楽の会話しかしなかった.
一緒にゲームをしていると,多くのことが伝わってくる.
彼らはマルチプレイヤーのゲームを好む一方で,コミュニティはひどく閉鎖的にしたいという,ある種の矛盾したアイデンティを抱えているように感じた.
また彼らは過度に群れることを良しともしなかった.
メンションを飛ばすのは人数が欲しくてたまらないときだけで,サーバー上での関わり合いは,基本的に自発的な参加のみであった.
誰がルールを定めたわけでもなく,自然とそういう関係が出来上がっていた.
そうなった理由も,今ならよく理解できる.
きっと僕と同じように,陳腐化したコミュニティでの孤独に曝されたくないのだろう.
そして,その孤独を仲間に与えたくもなかったのだ.
泣けるほどに,つくづく優しい友人に恵まれたものだと思う.
孤独を感じているのは,僕だけではないのだ.
そしてそのことがわかるから,僕は僕の孤独を許すことができるようになれたのだ.
孤独を共有するということ
僕は何をしても,僕の孤独を癒やすことができない.
ニートになることで,僕は自分の中にある孤独を肥大化させてしまった.
この孤独感をごまかすために,僕は他者の孤独を知り,自分の孤独を許していく努力を,一生涯続けていくことになるのだろう.
結局のところ,僕にとってコミュニティとは必要不可欠なものであった.
ただ大きな組織,大きなコミュニティが,僕にとって不要だったというだけなのだ.
僕のようなメンタリティを持っている人間は,きっとこの世に少なくないのだと思う.
なにせ僕ほど真面目で誠実な人間が,就職もできず,修士もとれず,ニートの身分に甘んじてしまうほどに,日本という国において孤独というものが深刻化しているのだ.
だからきっと僕のように,そして僕と違った孤独を感じている人が,この世の中に溢れているはずなのだ.
こんな駄文をここまで読んでくれるような奇特な方がいるのなら,きっとあなたもあなただけの孤独を感じているのだろう.
困ったことに,僕はそれを癒やすことができない.
偉人のように含蓄のある言葉も持たないし,目が覚めるような成功体験を語り聞かせることもできない.
勉学を通じて得た受け売りの知識に,僅かな哲学的思考を添えた自分語りのみが,僕のひけらかすことのできるものである.
まさにこの5000文字を超える怪文書こそが,僕の孤独を映すファクトの一つだ.
そこに僕という人間の実在性を感じるのならば,この駄文を綴ったことにも意味があったと言えそうである
何が言いたいかというと,僕は孤独なのであなたの孤独を教えてほしいということだ.
その見返りとして,僕の孤独を共有したいと思う.
僕の主観だらけの孤独感を知ることで,あなたの孤独が許されるのかどうか,テストケースになってくれる奇特な方を募集したい.
おそらくそんな数奇な人間は相当にレアだと思うし,そんな人間がこんなブログのこんな記事を見に来て,最後まで読んでくれる可能性など皆無であると思うが.
我こそはという勇者がいたら,何かしらの手段で連絡してくれれば反応させていただく.
この記事のコメントでも構わないし,メールアドレス宛でも構わない.
このブログと同様に闇に満ちたTwitterアカウントを運用しているので,そこにDMかリプを送ってもらっても構わない.
ちなみに1年前の僕は,高専の先輩のブログを見てDMを送ったことがある.
そのブログの記事は,当時2年前に書かれたものだった.
就活で困ってる高専生・高専卒はいつでも絡んできてほしいと,そう書かれていたので絡みにいった.
何が言いたいかというと,この記事を書いて2年くらいに経った後に絡んでくるような奇特なやつがいたら,2年後の僕は喜んで反応するということだ.
1年前にそうして救われたのだから,それが僕の矜持というものだ.
こんなことを書いているうちに,怪文書の容量が6000文字を超えつつある.
というか超えた.
多くの言葉がゲシュタルト崩壊を起こし始め,僕の頭もいい加減におかしくなってきたので,このあたりで締めようと思う.