死が急速に迫ってきても生は実感しないという話
5日間で老けた
就活というものは人の精神年齢を随分と加齢させるのだということを知った.
一つに,否が応にも未来のことを考える必要があるという点が,僕の精神をこんなにも削るのだろう.
日本の未来は,とんでもなく暗い.
高齢者福祉の研究してきたら知ってるけど,超高齢社会の絶望は計り知れない.
人類が老化というプロセスを克服することができない以上,人は老いていき,やがて介護が必要となり,そして死ぬ.
人は自壊するよう遺伝子的にプログラムされているのだから,避けようのない事実だ.
そしてその自壊すら,医療の発展がもたらした「正の遺産」なのだ.
抗生物質は,風邪という悪魔の死から人を救出した.
その結果,人は糖尿病と認知症とがんで死ぬようになった.
だから介護というシステムが誕生した.それは何も悪いことではないのだ.
だがそうして数を増やした人間は,旧来の制度ではカバー仕切ることができない不条理を抱え込むことにもなった.
異常な人口構造が生み出した社会制度とそれを牛耳る資本家により,いわゆる若者と呼ばれる世代が食い物にされている現状は,まさにその好例といえる.全然好ましくないけどね.
介護職が足りないのに待遇は劣悪.保育士が足りてないのに過酷な労働環境.IT人材が不足しているのにSESに斡旋して身売り.
さらに中途半端な実力主義が台頭したことにより,40,50代の失業率まで増加.
日本は引きこもりと要介護者の国と化している.
そしてそれは構造上の欠陥が生んだ結果であり,マンパワーで解決することはほぼ不可能な,文字通りの絶望として,ただただそこに有り続けている.
引きこもりというと,現在進行系で頑張り続けて自走している人間にとっては馴染みが薄い存在なのかもしれない.
だがそれは地面に潜るモグラのように,あなたの目に映らないからであって,事実としてそこに存在する.
私のちょっと古い記憶による知識では,全人口の1.5%くらいが引きこもりと言われている.多分今はもっと増えていて,調査されてない者も含めれば2%は下らないだろう.
つまりは何気なく通り過ぎるアパートや民家を適当に数えて,50戸くらいの内に1人くらいは引きこもりがいる.
引きこもりでもコンビニくらいは行くから,コンビニに行くまでの間に50人にすれ違ったら,その内の誰かは引きこもりだ.
もっと具体化すると,中学や高校の同期が200人いたら,4人くらいは現在進行系で引きこもりなのだ.
ちなみに僕は書類上は大学院を休学しているため,一応は学籍を持った「学生」である.
だから統計上は引きこもりとは認められない,そんな人間もいる.
はいそうです.私は将来の正式な引きこもり予備軍なのです.
そういった奴を含めれば,多分引きこもりの総数はもっと多くなる.
コロナ不況とか色々あって,多分今後も引きこもりは増加するだろう.
僕も今年の就活が失敗したら,今度こそ立ち直れないかもしれない.
そうなったら,僕も晴れて統計上の引きこもりの仲間入りである.
今を生きるのはつらいけど,つらくてつらくて死を選ぶよりは,引きこもりはマシな選択肢だ.
将来の今日を作る明日は,もっとつらくなることがほぼ約束されている.
誰もそんな絶望を抱えて今を生きたくないから,どこかで折り合いをつけたり,気にしないようにする.
強い人間なら,立ち向かうか順応する選択肢を選ぶのかもしれない.
でも全員がそんなに強い人間なわけじゃない.
無視できないほどに膨れ上がった未来の絶望は,ハリボテの強がりなどは一瞬にして破壊してしまう.
僕は割とポジティブな人間で,未来は明るくできるはずだと思い,そう願って高専に入学し,大学に編入し,大学院に進学した.
でも僕は大学院に1年通ったタイミングで,とてつもなく肥大化した未来の絶望に押しつぶされた.
そこに至るまでには様々な理由があったし,原因は自分にも環境にもあったと思う.
でも僕はその絶望から逃げた.逃げたら,その翌日から引きこもりになることができた.
引きこもる理由なんて,結局のところは「明日を迎えたくない」だけなのだ.
未来を想像するという行為は,この日本という国ではとてもとてもつらい行いなのだ.
未来から逃げることで,人はだれでも引きこもりになることができる.
引きこもりになるのは,とても簡単な選択なのだ.
就活というものは,将来のビジョンを具体化させる通過儀礼である.
そこで僕たち就活生は,未来の絶望を垣間見る.
これに順応しなければ,大人になることはできない.
大人になるってつらいね.僕はね,もう一生大人になりたくないです.
でも就活しようとする以上,僕は絶望に飲み込まれ,その都度老化していく.
老けるね,就活って.
死を想う
だが覚えておきな
――死からは逃げられないよ
アッシュ:アヴァローサンの戦母 第1話 グレーナより
https://universe.leagueoflegends.com/ja_JP/comic/ashewarmother
オタクなのでLeague Of Legendsの漫画の台詞も引用しちゃう.
Vive memor mortisなんてラテン語の時代にも言われるほど,死は身近な存在である.
人は死に向かって老化する.
老いるとは,死に近づくことを意味する.
就活すると老いるのだから,僕は間違いなく死に近づいているのだろう.
だが不思議と,生を実感することはできない.
命の価値は皆平等というが,引きこもり目線では平等でない.
引きこもりを続けるうち,いつからか僕は生きている実感がわかなくなった.
擦り切れた自己肯定感は,生きている意義や価値を見失わせる.
僕は何でもやりたいし,何でもできるようになれるはずだと今でも子供のように信じているはずなのに,その果てには何の意義も価値もないのだと認識しようとしてしまう.
就活を始めてから,僕は死について考えるようになった.
父が死に,母が死んだら,僕はどう生きるのだろうか.
何もしなくても僕が歳をとるように,老化のプロセスは容赦なく両親にも襲いかかる.
両親が死んでも家は残るし,その頃に僕は40,50歳になっているだろう.
僕は結婚願望がないから,独り身で生きているに違いない.
両親とはずっと仲が良いから,逝去したら僕はとんでもなく悲しむだろう.
偉大な父と母を失ったら,僕はその悲しみと喪失感に耐えきることができるのだろうか.
きっと,今の僕では耐えることができないだろう.
24にもなって,未だに親の声や顔が恋しいのだから.
料理をするときも,家族全員分の皿を用意しないと作業に手が進まないほどには,一人で生きることに向いていないのだ.
もしも僕が手に職を持って,ひとまずの安定を得たら,そういった執着や恐怖は消え去ってくれるのだろうか.
社会人になって20年や30年もしたら,そういった「青い」感情はかすれて消えていくのか.
一生引きこもっていても,親や家族,友人などへの未練はいずれ消えてしまうのだろうか.
そうした離別や痛みを経て,いずれは僕も死ぬ.
人類が老化のプロセスを克服できなければ,それは避けようのない事実だ.
死の間際,おそらく僕は孤独なのだと思う.
死因は知らないが,寿命で死ぬなら間違いないく独りで逝くのだろう.
人生はそこに向かうまでの道のりに過ぎないんじゃないかと,今の僕は思ってしまう.
その道のりに何があって何が見えるかなんて,今の僕には想像できない.
それが良いものだなんて,なおさら思うことができない.
そこにたどり着くまで,どうしても僕は生きなければならないのだろうか.
わからない.
今日ほど,自分が無宗教であることを悔やんだことはない.
死について明確な答えがほしいだなんて,就活始めてから真面目に考えるなんて思ってもいなかった.
おそらくはしばらくの間,もしくは一生,僕はこの命題についてモヤモヤしたものを抱え続けなければならなくなった.
就活は,本当に精神が老いていくものだ.
ただ一つ言えるのは,今まさに迫っている死を認識していても,僕はまだ自分の生を実感できてはいないということだけだ.
そしてきっとそれは,これから実感してくことなのだろう.
そのようにして生きて始めて,僕は死に向き合える日が来るのだと,幼い僕は思考を馳せるしかないのだ.
頑張ろう
クッソどうでもいいポエム的な何かを書いているうちにもう3000文字も書いていた.
この才能を講義のレポートに活かせていたら,学生生活ももう少しは違っていたのかもしれない.
さて,ようやく履歴書を作って企業の応募や面談にエントリーして,僕の就活は今始まったばかりだ.
老いてばかりでは始まらない.
老いるということは,時を刻むことでもあるはずだ.
そして時を前に進める以上,僕も変化していくことができるはずだ.
それが良い変化なのか悪い変化なのかはわからないが,きっと僕は良い方を掴み取ってみせる.
ひとまずはまた,ものづくりに触れてみよう.
頑張れ俺!できるぞ!!お前ならできる!!!!うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお