人を値踏みすると自分もそう見られるという話
人間は何かに意味付けをすることで人生というものを描く。
いや主語が大きくなってしまったので訂正すると、僕はそのようにして僕の人生を生きている。
…はずである。
さて、今日も楽しくお仕事してきた。
ミーティングと勉強会で結構な時間が削られたが、なんだかんだで業務は回せている。
…はずである。
行きの電車でなんとなしにふと思いついたことをタイトルにしてしまったが、それに関係する話を社長がしていたので、なんとも言えないタイムリーさである。
人の能力、資質、成果は、目に見えるものとして僕らの前に示され、比較をするよう求めてくる。
多くのものは相対的な質量を纏っていて、僕たちはその相対性の中で生きている。
違いというものは、なかなかどうして恐ろしいものだ。
目に見えるだけの違いは、格差として誰かを値踏みしたがる気持ちに繋がる。
見えやすい部分を見て、人の価値を決定しようとする。
それはとても人間的な行為であるし、それ故に残酷でもある。
人は多くの評価に曝されながら生きている。
給料も、身分も、世間体も、どれも評価という行いの産物である。
どれも、僕の興味のないものばかりだ。
僕がその評価に曝されるのは、きっと僕が何かを値踏みしているからなのだろう。
と、そんなことをふと思ったのでこんなタイトルになったわけである。
ようは自虐と自制、自戒なのである。
僕は僕の人生を生きると決めたのだから、誰かを評することなど、俗事で、取るに足らないことなのだ。
決別するとは、つまるところそういうことである。
そうした意思を持ち、誠実な人間関係を送ろう。
そんなことを思った1日であった。
さて、今日はお弁当を作ったのだった。
レンコンの挟み揚げが主菜で、なかなかに美味しかった。
ニート時代に培った主婦力が活きていると、そう感じられる。
何事も無駄ではないし、無駄にするべきではないことを再認識した。
明日も今日の残りの材料で別のお弁当を作る予定である。
とは言ってもほとんどの仕込みは今日の夜に済ませるので、朝にやることは多くない。
せいぜいが卵とかを焼く程度である。
そんなわけで明日のランチも楽しみである。
日常が楽しいことは、とても良いことだ。
このブログでは同じフレーズをなんども繰り返しているが、そうしたリフレインにも、僕に取っては価値がある行為だ。
だから僕という存在は、僕にとって価値がある。
…はずである。
よし。
今日もよく頑張った。
明日も楽しみながら、頑張ることをしてみよう。