就活アウトロー採用のワークショップに参加してきた
ワークショップしてきた
今日は就活アウトロー採用のワークショップがあった.
内容としては,前回の合宿に似た形のものだ.
今回は「生きがいとは何か」について,対話をすることになった.
生きがいとはポジティブな概念で,生きるための目標であり,そこに向かうアクションであり,そこから得られる正の感情である.
生きがいには関係性があり,独立志向の高いものはライフワークになったり趣味になったりするが,関係への依存度が高いと自己承認欲求などに変わったりもする.
仕事の中での生きがいは,関係性が高い生きがいとなる.
自分の生きがいを因数分解してみて,独立志向の高いものを知ることができれば,ライフワークとして生活にとりいれることも可能になる.
対話を通じて得られた僕のまとめとしては,この程度である.
1時間半程度の時間で,まぁまぁな形にまとめることができたと思う.
主催者の答え合わせによると,IKIGAIなる概念があるらしい.
生きがいを決める尺度として,愛,得意,稼ぎ,要求が存在する.
IKIGAIで調べれば概略図が出てくると思うが,僕なりにまとめるとこんな感じだ
- 愛は自分で決める
- 得意は自分で探す
- 稼ぎは時代に合わせる
- 要求は他人が決める
学生や社会人未経験のうちは,基本的に得意なことを探していくのが良いらしい.
なんとなしでも稼げる方法を知ることで,社会人になった後でもキャリアの選択肢を狭めることなく生きやすくなるそうだ.
Life Shiftとかを代表とする自己啓発本にも,大体同じようなことは書かれている.
世界は今,急速に多様化が進んでいる.
見たことも聞いたこともない仕事や企業が,これから山のように現れる.
10年後の僕たちは,想像もつかないような働き方をしている.
スキルを得てそれで稼ぐという方法は,体系として知っておくべきことなのだろう.
生きるためには,糧が必要なのだ.
10年後に生きるためには,稼いで,命を繋がなければならない.
流されることは,ときに大事なことなのだという.
キャリアは偶発的に作られる.
計画してキャリアを組み立てる時代は,もう終わってしまった.
だから縁を広げて生きていくことは,時代に適応する上で大切なことなのだ.
縁を得るためには,当事者にならなければならない.
当事者になりたいのであれば,愛を持つか,得意なことを見つけるか,稼げるようになるか,誰かの要求を満たすか,そういうことをしなければならない.
就活というものは,きっとそれを実行するまでの過程のことを言うのだろう.
僕は就活を経て,愛を知り,得意なことを見つけ,稼ぐ能力を得て,誰かの要求に応えられる人間になるのだ.
おそらくそのすべてを得ることはできないのだろうが,その一つでも見つけなければ,きっと僕は社会人になることはできない.
対話を通じて見えることは,確かに多くあると思う.
それでも僕は,自問自答を続けることでしか答えを出す術を知らない.
自分の心との対話は,今しばらく続けることになるのだろう.
エントリーシートが一生書き終わらない
さて,今日のワークショップは夕方のことであり,それまでの間,僕は一日中エントリーシートを書いていた.
先週エントリーフォームを送っていただいた企業に対し,今日中にエントリーをしようと思っていたのだ.
しかし困ったことに,ESが書き終わらない.
自分の一番頑張ったことについて書くという枠が,どうしても埋まらないのだ.
僕が頑張ってきたことって,何かあったのだろうか.
振り返ってみると,僕が頑張ったと誇れることは,ないのではないか.
過去は陳腐化していく.
これは,僕が今も成長している人間であることを示す,確かな証拠である.
だが,陳腐化した過去の中に,何か光るものはあったのだろうか.
しきりに僕の過去を掘り進めていっても,光り輝く何かを,どうしても見つけることができないのだ.
制作活動などは,そこそこにしていた経験がある.
ボランティアだっていくつかの種類をした経験がある.
フードバンクの依頼でシステムを作ったことだってある.
僕は,世間一般の学生と比べれば,頑張ってきた方なのではないかと思う.
編入後も3年次は単位が厳しかったので死にものぐるいでフル単をかましたし,研究活動だって積極的に取り組んでいた部類だと思う.
院試勉強は相当に力を入れていた.おかげで筆記の成績は相当上位にいたと聞く.
僕は,頑張ってきた側の人間なはずだ.
そうでなければ,誰が追い込まれて大学院の退学を決意するにまでに至るだろうか.
つらい思いをしてまで,僕は頑張るという行為を続けてきたのだ.
それでも,僕は過去の僕の頑張りを,頑張りとして受け止めることができない.
頑張ってきたはずなのに,そこに輝きを見出すことができない.
その実感を得てしまうたびに,僕は打ちひしがれる思いを抱く.
どうして僕は僕の頑張りを認めることができないのだろうか.
誰かに「お前は頑張った」と言ってもらっても,心のどこかでその激励を冷めた態度で捉えようとする自分がいる.
過去の自分に形を与える行為を,恐れている自分がいる.
僕の過去は,相応にカオスでなければならないと定義したがる自分がいる.
就活は,僕の不完全性を丸裸にしようとする.
僕が人間として得るべき,足りないものが存在するのだと,語りかけようとしてくる.
エントリーシートを埋めるために,僕は僕のことを偽らなければならないのだろうか.
僕が頑張りとして認めることができない過去の行いを,頑張りだと称して説明しなければならないのだろうか.
僕は自分を見せることが恥ずかしいと思っているわけではない.
むしろ,就職に際しては企業に自分のことを全部知ってもらいたいと思っている.
僕の不完全性や僕の弱さを受け止めてくれる企業に出会いたいし,僕もまたそこで誰かの弱さや不完全性を愛せる人間になりたいと,心の底から願っている.
ああ,きっと僕は,この弱さを見せなければいけないのだろう.
不完全な頑張りを,それでも頑張ったのだと言い張る弱さを,僕はエントリーシートにぶつけなければならないのだ.
それはつらくて痛みを伴うことだが,それでも受け止めたいと僕は願ったはずだ.
なら不完全なままで,僕は僕の頑張りの伝えるべきなのだ.
弱い自分を,全部見せるべきなのだ.
それが僕の願いであり,望みのはずなのだから.
明日は,必ずエントリーシートを提出しようと思う.
引き伸ばしていた覚悟や決断は,明日にすべて断ち切らなければならない.
だいたい,エントリーシートの記載なんて行為に僕の時間を割き続けるわけにはいかないのだ.
僕は僕を受け入れてくれる企業のために,そして明日の僕自身のために,学びつづけなければならないのだ.
きっとエントリーシートも,学びのひとつなのだと思う.
そして今,僕はその学びを自分のものにしたはずだ.
不完全な僕を見せるのが,エントリーシートの正体なのだ.
僕が望み,そして僕を望む企業ならば,きっと不完全な僕に対して,興味を持ってくれるはずだ.
だから僕はその企業のために,精一杯に不完全な自分を伝えるだけなのだ.