凡人にとって信仰とは有用である
儀式的に朝起きて儀式的に何かする
凡人は凡人であるが故に,すぐ悩むしすぐ立ち止まる.
そして凡人なのでそこから前に進むことをためらう.
そうした結果,凡人は凡人未満の何かに成り下がる.
何かを信仰することは,凡人にとって有用である.
凡人は他者を導くことができない.
他者に導かれることしか知らないから,凡人なのである.
なので凡人は自分のことを導いてくれる何かを常に必要としている.
僕も凡人の一人である.
残念なことに,僕は何かに導かなければ動き出すことができないタイプの人種である.
なので僕は凡人として,何かにすがりながら生きなければならない.
日本は無神論がまかり通っているので,信仰に頼って生きるのは割と愚者の行いだと思われがちだ.
もちろん僕も日本人であり,無神論者なので,信心深さなど持ち合わせてもいない.
しかして僕は凡人でもあるため,何かを信じて生きねば,希望のうちに明日を迎えることができない.
神を信じることができないのであれば,何を信じれば良いのだろうか.
僕はとりあえず,"知"を信じようと思った.
"知"は平等であり,公平であり,決して僕を裏切るものではないと,そう信じることにしたのだ.
さて,"知"が語るには,どうやら習慣というものは偉大であるらしい.
そして”知”は朝に起きることの重要性も説いている.
ならば朝に起き,活動をするという習慣を身につけることは,僕の信仰心を高める行いに違いない.
"知"を信仰する以上,僕はそれを儀式として行うべきだろう.
よって今日は儀式として朝に起き,活動したという証明を残すため,こんな記事を書いて更新することとする.
その後は”知”に対する祈りを捧げるために,勉学に励もうと思う.
すなわち,Firebaseについていろいろ調べたり実践したりをしようというわけである.